インターネット版

児童文学資料研究
No.86


  発行日 2001年11月15日
  発行者 〒546-0032 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫
 


目  次


「少年軍事小説と理学思想」古賀邦夫(「児童」所載)大藤幹夫
2000年発行紀要論文紹介(補遺)大藤幹夫
竹貫佳水の経歴考―博文館入社まで―(その1)上田信道
松美佐雄著『日曜学校に於ける童話の話方』藤本芳則


 
Next Content

「少年軍事小説と理学思想」 古賀邦夫

    「児童」  昭和10年1月1日発行

 本題の資料紹介に移る前に、時代を写す本誌の「編輯後記」をとりあげたい。
 書き出しである。
 謹賀新年!
 今年中にお弁当の食べられないような子供が一人もゐなくなる様に。年初に当つて希望するのはまづこの凡庸な願ひです。日本の何処かの子供達の上に餅のないお正月が訪れてゐるのではないか。それを思ふとゐても立つても居れません。
とある。教育雑誌にこう記されねばならない状況が多くの子どもの上にあったことを忘れてはならない。
 特輯としての「子供の軍事熱」のねらいについて、
子供を誇大妄想的な軍国主義者たらしめようとする少年少女雑誌の戦闘熱がいままで教育者や父兄によつて殆んど真面目に反省されもしなかつたのはどうした事でせう。着実剛毅な子供こそ真実に現代のために用意さるべき子供であるのに。
と批判されている。
 本題は、このねらいにそった論考で、具体的に平田晋策の『昭和遊撃隊』と山中峯太郎の『黒星博士』がとりあげられている。
 時代の状況を冒頭、
 非常時日本の浪に乗つて、軍事小説が近頃引き続いて、少年雑誌には勿論のこと、少女の雑誌にさへ現はれ出した。安つぽい涙小説などに較べると、子供の勇気を奮ひ立たせ、日本の国に対する認識を深めさせるといふ点で、此の事自身は決して悪い現象ではないのである。
と認めつつ、「現在世に現はれてゐる軍事小説の或者は、それを我々理学畑の者から見ると、大分物足りない」として、具体的にまづ平田晋策の『昭和遊撃隊』があげられる。
 その要は、「理学に関する事柄の取り扱ひが、少し手軽すぎはしないか」ということにある。
 『昭和遊撃隊』に登場する武田工学博士が発明した潜水艦…「此の潜水艦は、翼を拡げれば、又、飛行機ともなるといふ神変不可思議のもので、此の怪物が自在に大空を翔りながら、A国の飛行機を打ち摧く」…が、「忽ち碧海島の青空に現れて、フーラー博士を驚かすといふわけには決して行きはしない。」
 なぜなら「兎に角役に立つといふ程のものが出来るのには、少くとも二十年の月日は入用」「ほんとうに戦争で役立つのには、五遍や六遍の作り直しは、是非やらなければならず、従つて、それの完成迄にはその性能は大抵世界のいづれにも知れわたつてゐる」からである、と書かれる。
 また、「軍艦「最上」は敵の飛行機から五百キログラムの爆弾を落とされても、ビクともしなかつた」のも「少し強すぎる」と批判される。
 A国のルビー軍港は、土人の一ト攻めによつて、忽ち攻め落とされる事になつてゐる。近代的の防備を凝らした要塞地帯が、高が土人の襲撃によつて、かくもたやすく落ちるものであらうか?
 こうした批判を「その位のロマンチシズムはあつてもいゝだらう。」という声のあることを承知の上で、「一度之が子供の心に及ぼす影響を考へるならば左様なことは云はれはしまいと思ふ。」と反論する。
 子供は兎角空想に耽りやすい。「昭和遊撃隊」の様に手軽に取り扱つてあると、大発明などは簡単な思ひつきで出来るものの様に思ひはしないだらうか?
と憂えている。
 肉弾さへあれば、理学的の武器や防備などは、どうにでもなるといふ、一世紀前の旧い頭の持ち主がいまでも持つてゐる、ある間違つた思想に捉らへられることはないであらうか?
 この筆者の心配がやがて事実になる。「一世紀前の旧い頭の持ち主」が日本を支配することになる。そして悲劇を生む。
 日本人が欧米にくらべて理学思想に遅れている原因の一つに「子供が読むための理学の本が少く、たまに有るものは無味乾燥で余り面白くない、といつた様なところに在る」と指摘する。
 理学の立場から教育現場への批判もある。
 学校で教わる算術や理科などが、第一にあまり六ケ敷い述語を使ひ過ぎるのと、もう一つには、其様な学問が、彼等の眼の前に起こる、世の中の色々な現象と、あまりに掛け離れてゐる様に、(彼等に)見えるからなのである。
 理数離れをいわれる現在にも通じる(それだけ教育現場は変わつていない)ように思える。
 そして提言がある。
現在非常時に際会して軍事小説が大流行を来してゐる際、之を巧に利用して子供に理学思想を吹き込むことは、極めて時宜に適つた企てであり、又実際次代の日本国民の基礎を形作る上に於て、極めて必要な事であると思はれる。
 これは発想が逆転して、文学性を放棄することになる。(軍事小説に文学性を求めなくとも、理学に奉仕する作品になってしまう。それはもはや小説と呼べるものではなく単なる科学読み物であろう。)
 筆者も心得えていて「勿論、始めから理学思想吹き込みの積りで書かれた軍事小説などは、少しも面白くないに極つてゐる。」としてゐる。
 作者の願う
その小説は、子供に向つて軍事思想、愛国思想を吹き込むと共に、大に理学に対する趣味をも併せ養はせ、錦の上に花を添へた様な立派なものになると信ずるのである。
 つぎに、「少女倶楽部」掲載の山中峯太郎の「黒星博士」も「同じ様に云ひ得られる」としながら「一つ事を繰りかへすのはくどくなる」としてくわしくはのべられない。
 結論は「願はくば子供の頭をあまりに空想に走らせて戴きたくないといふ事」である。空想=荒唐無稽と考えられているのが気になる。これを「今日軍事小説家諸氏に与へられた国家的義務であると、私は信じて疑はないのである。」と結ばれる。

(大藤幹夫)




 
Next Back Content

2000年発行紀要論文紹介(補遺)

大藤幹夫


「白百合児童文化」(白百合女子大学児童文化文学科児童文学・文化専攻) 10 3.×

  • (エッセイ)「音楽と宮沢賢治」―あるいは草野正宗のファンタジー考―阿久津 斎木
  • 「冨田博之先生にささげる 日中戦争期の児童文化学と出版の構造―『児童読物改善に関する内務省指示要綱』のターゲットとイデオロギー」 宮崎芳彦
  • 「北原白秋ノート(十)―直哉と白秋―」 宮沢賢治
  • (研究展望)「「読者論」についての七つの基本的命題」 石井直人

[日本児童文学]
  1. 「テーオバルトはパルチファルか―斉藤洋『テーオバルトの騎士道入門』をめぐって―」 大沢慶子「大阪市立大学文学部紀要・人文研究」第52巻第11分冊 75-91頁 12.25
  2. 「「坊つちゃん」と「ふさぎの虫」―「文学上方言の使用の価値」について―」 石井和夫「文芸と思想」(福岡女子大)第64号 1-15頁 2.25
  3. 「「所が狭くて困つてるのは、おれ許りではなかつた」―『坊つちゃん』論―」 佐藤裕子「フェリス女学院大学文学部紀要」第35号 1-23頁 3.1
  4. 「反・学校小説『坊っちゃん』」 西村好子「国文論叢」(神戸大)第29号 47-57頁 3.31

[宮沢賢治]
  1. 「宮沢賢治『銀河鉄道の夜』論―ジョバンニとカムパネルラー」 内田 寛「語文と教育」(鳴門教育大)第14号 26-35頁 8.30

[世界児童文学]
  1. 「赤い薔薇と白い花―Oscar Wildeの童話に見られる芸術と宗教について―」 鈴木ふさ子「フェリス女学院文学部英文学会会誌」第33号 272-295頁 3.15

[民話・昔話]
  1. 「耳で聞く昔話から目で見る昔話へ―昔話「鶴の恩返し」を読む―」 稲垣幸子「淑徳文芸」(愛知淑徳短大)第13号
     169-206頁 9.1

[童謡・唱歌]
  1. 「学校唱歌から大正期童謡へ―韻文作品にみる擬音語・擬態語表現の多様化―」 加藤妙子「名古屋大学国語国文」第86号  1-18頁 7.10
  2. 「童謡・唱歌におけるモーラとオノマトペ」 西崎 亨「鳴尾説林」(武庫川女子大)第8号 1-10頁 11.8


 
Next Back Content

竹貫佳水の経歴考―博文館入社まで―(その1)

上田信道


 竹貫佳水(たかぬき・かすい)は、土木技師から作家・編集者に転身したというユニークな経歴を持つ。江見水蔭の門下に入って、江水社に参加した。本名は直次。直人・なおんど・なおと・直人剣などとも称し、博文館に入社後は「少年世界」「中学世界」の編集に従事。この間、孤児院や児童図書館を設立するなど、多方面にわたる業績があった。
 土木技師時代の佳水については、東京都に履歴書が保存されているため、かなり詳細なことが分かっている。この履歴書については、かつて攻玉社の同窓会が発行する「玉工同窓会々報」(1993年4月1日)に掲載された「「竹貫佳水」こと「竹貫直次」」(長谷川博・著)に紹介されたことがある。しかし、限られた会員に配布される会報であるため、児童文学に関心を寄せる人たちの目に触れる機会はなかったのではないだろうか。そこで、かねてから長谷川博(当時、攻玉社工科短期大学教授)氏より提供をいただいていたこの履歴書から、主要な事項を抜き出して、ここに再構成してみたいと思う。なお、出典は東京都公文書館所蔵の公文書「転免・死亡者履歴書」である。

  群馬県士族 登代多弟 竹貫直次 旧前橋藩
1875(明8)年3月10日群馬県前橋市石川町ニ於テ生
1892(明25)年4月東京市芝区攻玉社尋常中学科卒業
1894(明27)年2月同社土木科卒業
1894(明27)年4月13日東京湾築港調査掛申付月俸拾円ヲ給ス(東京市参事会)
1894(明27)年12月10日依願免調査掛(東京市参事会)
1894(明27)年12月19日雇員ヲ命シ月俸拾円ヲ給ス/臨時測図部附ヲ命ス(陸軍省)
1895(明28)年1月16日自今月俸拾五円ヲ給ス/臨時測図部測図手ヲ命ス(陸軍省)
1895(明28)年2月1日遼東半島ヘ出張ヲ命ス(陸軍省)
1895(明28)年7月1日帰朝
1895(明28)年9月20日朝鮮ヘ出張ヲ命ス(陸軍省)
1896(明29)年4月5日朝鮮ノ帰途台湾ヘ出張ヲ命ス(陸軍省)
1896(明29)年8月15日帰朝
1896(明29)年9月19日臨時測図部被廃雇員ヲ免ス(陸軍省)
1897(明30)年1月12日東京市水道助手申付月俸拾五円ヲ給ス(東京市参事会)
1899(明32)年12月2日調査部勤務工務取扱申付月俸弐拾円ヲ給与(第一区土木監督署)
1899(明32)年12月20日任東京府技手/給八級俸/内務部第二課勤務ヲ命ス(東京府)
1900(明33)年6月28日依願免本官(東京府)

 佳水の父・平三は前橋藩士であったが、佳水が生れてまもなく死亡。竹貫家は兄・登代多(1856〜1931)が相続することになった。そのため、履歴書の冒頭に「登代多弟」とある。登代多は攻玉社の前身・攻玉塾に学んだ数学者であった。のちに佳水は「幼児の記憶」(「少年世界」1910年4月15日)と題する一文の中で、「僕は生れて一月経つか経たないうちに、お父様を亡くしてしまつた」「生れたばかりで父を失つた僕は、何から何まで兄さんの世話になつた。僕の身に取つては、兄さんは取りも直さずお父様であつた、学校に上げて貰つたのも兄さんにである、東京へ連れて来ていただいたのも兄さんにである、ほんとに兄さんには一方ならぬお世話になつた」と回想している。
 この一文から幼児期のことを拾い出してみると、前橋の相生町の官宅で学校に上った。小学校は厩橋小学校から桃井小学校に移った。この時代の佳水は「大の弱虫であつた」「よく他人に虐められた」「その癖悪戯もそれ相応にした」という。「相生町の官宅」というのは登代多が教員をしていたからである。登代多の履歴を調べると、1882(明15)年から1886(明19)年にかけて群馬県中学校および群馬県師範学校に勤務したことがあった。
 余談に属することだが、「幼児の記憶」には明治初期の子どもの生活資料として興味深いエピソードが記されている。少し内容を紹介しておこう。
 まず、教室における体罰である。「何か僕は悪戯をしたと見えて、黒板の前へ引出されて立たせられた。たゞ立たせられたばかりならまだしもだが余程免しがたい悪戯だつたと見えて両手を前に差出して算盤を持たせられた。のみならず其の算盤球の上には皆なが習字の時に使ふ硯の水の入つて居る大きな土瓶を乗せられた。」という。
 次は、「呑龍坊主」のことである。「僕は其の頃流行つた呑龍坊主であつた、呑龍坊主と云ふのは、七つの歳まで髪を剃つてクリクリ坊主になつて居ることだ、斯様して居ると無事に成長すると云ふので、それで僕はお母様に呑龍坊主にさせられて居たのである」という。
 最後に、幻燈会のこと。「興行した場所は本町の劇場であつた。そして興行とは云ひながら教育的のものであつた。」「向島の桜、川添ひの堤に桜花の咲き乱れて居る景、それを僕は初めて此の幻燈会で見たのであつた。説明者は曰く、之は東京の桜花の名所で、此所に有名な言問ひの団子と云ふ名物があると云つた。それを聞いて僕等は、『何だ一昨日の団子か、そんなものが喰えるものか。』と云つて大騒ぎをした。」云々というエピソードである。
 話題を本題にもどす。
 攻玉社は蘭学者・英学者として知られる近藤真琴の塾を母体に創立され、兄の登代多は1886(明19)年からここで教員をつとめている。そうした関係から、佳水もこの学校で学ぶようになるのは自然な成り行きであった。『攻玉社百年史』(1963 攻玉社学園)によると、攻玉社は土木・建築関係の人材のほか、海軍別科(のち海軍中学校などと改称)を設けて海軍兵学校へ多くの人材を送りだしている。攻玉社の中学校に相当する課程が尋常中学校として正式に認可されたのは1893(明26)年のことであった。これは佳水の卒業後のことであるから、「尋常中学科卒業」という履歴書の記述は正確ではないかもしれない。土木科は1888(明21)年の開設。「土木科ハ土木学科ノ技手ヲ養成スルヲ以テ目的トス」として設置され、修業年限は二ケ年。英語教育を重視し、専門科目の教科書は英語の原書をそのまま用いていたともいう。こうして、佳水は攻玉社における教育を通じて、かなりの英語力を身につけていたものと思われ、のちには『英和対訳実用土木字典』(1903 建築書院)などの著作を物している。
(続く)


 
Back Content

『日曜学校に於ける童話の話方』

  松美佐雄著
  大正15年1月10日発行
  大谷派本願寺社会課

 「自序」8頁、本文、附録ともで280頁。定価1円。所見のものは、縦16.5センチ、横10センチだが、補修されているので裁断されている可能性がある。真宗大谷派の出版物で主として系列の日曜学校向けに出されたものか。
 「自序」に「よく話など上手にせぬとも解りさいすればよいといふ宗教家があります。之は苦しまぎれの弁解と思ふほかはありません。上手にするから解るので、一面からいふと解るから上手なのであります。」といい、まず寺院に子どもを集めるにも、上手に話しができることが必要と、話方研究の必要性を説く。
 目次は、親鸞聖人の御言葉/会場の設備について/会場の並べ方/時間と内容と改作/静養と予習と服装/オーソリチイのこと/表情面のこと/表情量のこと/表情層のこと/態度のこと/地声を擬声/お話の構成法/聯想作用のこと/態度の共通点/講壇と其背景/拍手と共鳴のこと/真のお話の目的/話方の実例/童話の選び方/児童芸術とその幸福/附録木彫の玩具(教材)。
 口演のための、会場設営、子どもの並べ方、服装、態度などの技術的記述が多いが、これらは略し、児童文学という視点から意味のある記述を拾いたい。
  子どもを「元気ある、聞きたがる、見たがる、動きたがる」存在とみて、「彼等の尊い求知心から、発達して行くところの想像を、親切に説明するといふことが、童話の話方の第一義」だとする。肩車をした子どもにあちこち見せてやる親の気持が「童話教育家の心持ち」と比喩で説明。子どもは成長するものであるから、宗教家の涙もろい話をする傾向は好ましくないと批判する。
 口演には、「話の筋が面白く、夫に変化があつて適当に興味を持続する條件が活動して十分に道徳的陶冶に効のあるもの」を良しとする。そのために、もとの話を改作する必要がでてくるとして、「三ツの小豚」(三匹の小豚)を具体例としてあげている。 原書によりますと第三の小豚が鍋に湯をグラグラ煮立てゝ居ると悪い狼がお尻から煙突へもぐり込んでストンと其鍋のなかに落ちて熱湯を浴びて死ぬといふのでありますが、私は悪い狼が落ちる前に小豚に扉をあけさせておいて、火傷の狼をにがします。このにがすといふことが時代に適応することだと思ふのであります。
 松美の改作は、先述の「道徳的陶冶」の意識に基づくと思われる。現在では、昔話への理解がすすみ、絵本化されるにしても、いわゆる残酷な場面は改変されることはほとんどみられない。しかし、少し前までは松美と大同小異の改作が少なからずあった。「時代に適応する」というのは、「三ツの小豚」が成立したはるか昔には当然と思われたことも、文明の進んだ現在(同時代)では許されないという意味だが、そう昔でなくても、管見の限りではあるが、明治期には、「残酷な場面」のある昔話が改作なしで紹介されている。昔話の残酷性の見方に、明治と大正とでは相違があるようである。
 さて、「真のお話の目的」と題した項目では、「元来童話といふものは話の筋から児童を感化するばかりでなく、内面的にいふ時は、真剣性の養成であります。」と述べる。「真剣性」とは、「其物を其物として他物を思はず純一に即する態度」をいう。解り難いが、つまり批判したり利用を考えたりせず、ひたすら話に没入することをいうらしい。「お話につりこまれて、恍惚とする」ことが「真純なる純一性」の極地だという。だが、物語に対峙することで読者は成長するというような発想はない。
 なぜ、「心の純一性」を陶冶するのか。家庭では真純な愛となり、宗教では熱烈な信仰の基礎になるからである。児童に信仰心を持たせるにはこの方法以外にないというのが、この項の結論。
 次に「童話の選び方」に移り、「秩序性と純一性」を基準にすることをグリム童話から具体例をひいて述べる。秩序性は、類似する事柄の繰り返しにおいて、子どもの感覚から合理的と思える順になっていることをいうようである。「狼と小山羊七匹」の狼が、小山羊に示すのは、声、手、足の順になっていることや、「ブレーメンの音楽家」では、体の大小の順に登場することをいう。昔話の形式論といっていい。
 こうした事を踏まえて従来の童話を選ぶのがよいのであり、小学校教師のように新しい話とか、自己流の無秩序の創作は陶冶上甚だ危険だと付け加える。
 記述の中には、首をひねらざるを得ないような部分もある。たとえば、我が国は家長制度だから長男、次男が失敗し、末の息子が成功する童話は一考せねばならず、そういう場合は、兄弟ではなく単なる三人の人物として語るのがよいと説くところ。あるいは、翻訳や改作に言及して、下手な例に『雪子姫』の結末をとりあげて、「人々は真っ赤に焼いた鉄の靴」を妃の前においたと訳すのは誤りで、「人々」は「小人と訳するのが当然のこと」で、「人々」と訳したため「総て興味を失つて居ります」だといった指摘である。また、『雪子姫』の「中心思想は、判断を急ぐなといふことにある」と断じるのも一般的ではなかろう。
 「童話の話方本来の目的」として次の三点をあげる。
(1)心の感触を濃かに養ふこと
(2)心の純一性を養ふこと
(3)自由なる想像性を養ふこと
 (3)の想像力については、教育家は空想的な話に批判的だが、「子供の想像は将来科学の圏外に発達するものでありますから、之を童話時代に於て養ふことは実に貴重」だと想像力を伸ばすことを主張する。小波らが空想は害との意見を批判したのと同じで、この時期になっても非現実的な物語を疑問視する意見のあったことを知る。
 「児童が純真の世界に居するほどの幸福は再びと来らぬ」ので、この「純真の世界」にどれほど多く生活できるかで将来の幸福が期待できる。童話は、「そのものをそのものとして純一に即する態度」を訓練することのできる児童芸術であり、この「即する心」が科学に向い純一となれば科学者に、宗教に向えば名僧となり得る。修身項目をならべたり、科学を詰込むよりも、思考陶冶を完全にすることが緊要、というのが結論。附録に口演童話脚本「木彫の玩具」を収録する。

(藤本芳則)




Content List