インターネット版

児童文学資料研究
No.87


  発行日 2002年2月15日
  発行者 〒546-0032 大阪市東住吉区東田辺3-13-3 大藤幹夫
 


目  次


2001年上半期紀要論文紹介大藤幹夫
蘆谷蘆村『お母様の童話―お話の種とお話の仕方』藤本芳則
竹貫佳水の経歴考―博文館入社まで―(その2)上田信道


 
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2001年上半期紀要論文紹介

大藤幹夫


「論叢 児童文化」(くさむら社) 2号 1.25
  • 評伝 今西祐行(2) 関口安義
  • 若松賎子研究(2) 尾崎るみ
  • 児童文学と障害問題(2) 長谷川潮
  • 日本少国民文化協会の研究・覚書(2) 浅岡靖央
  • 子どもの英雄の近代(2)加藤 理
  • 上月とき子=〈女人童話会〉の評論家 上笙一郎
  • 追悼・上地ちづ子 同人一同
  • 上地ちづ子―軌跡と業績―
  • 書評 上笙一郎著『子育て こころと智恵』加藤 理
  • 書評 長谷川潮著『戦争児童文学は真実をつたえてきたか』 尾崎るみ
  • 書評 関口安義著『芥川龍之介と児童文学』 上地ちづ子
  • 随想 キリスト教国韓国への旅関口安義
「ビランジ」(竹内オサム) 第7号 1.30
  • 紙芝居の源流をさぐる畑中圭一
  • 戦後劇場アニメ公開史(6) アニメ「ピノキオ」の主人公はコオロギなのだ! 渡辺 泰
  • 生命創造にとりつかれた科学者たち/手塚治虫の実験アニメ 竹内オサム
  • 貸本漫画家人別帖 さいとう・たかを の巻(特別ゲスト=石川フミヤス) 中野晴行(聞き手)
  • 資料 戦後の『少年クラブ』の変遷(後編) F・M・ロッカー
  • 資料 「マンガ表現論」の文献リスト 竹内オサム
  • 風にふかれて児童文化論 川勝泰介
「ファンタジーの諸相(猪熊葉子先生古稀記念論文集)」 2.×
  • Walter de la Mare のファンタジーにおける「世界との一体化」―"The Story of This Book" を中心に― 川越ゆり
  • 『ビロードうさぎ』に見られる二つのrealのあり方 岡田まり
  • 物語芸術としての『ナルニア国年代記』―芸術シンボルと子ども― 三辺律子
  • 知識の歴史から生の歴史へ―ローズマリ・サトクリフの歴史小説― 渡辺佳子
  • 〈子ども性〉を読み解くための試論―アラン・ガーナー The Weirdstone of Brisingamen 再読― 森上めぐ美
  • 大地の声―再考『星に叫ぶ岩ナルガン』― 宮崎麻子
  • 心の綾・子どもの眼―フィリッパ・ピアスのフィクション構造― 和田啓子
  • 『トムは真夜中の庭で』におけるファンタジーの意味―「真夜中の庭」の魔法― 林 祐子
  • フィリップ・リドリーの児童演劇とマジック・リアリズム 内藤貴子
  • 幼年期の観察と夢想が喚起する幻想世界―『銀の匙』を中心に― 藤代恵美子
  • 中勘助『銀の匙』考T―「子どもの視点」というレトリック― 横田順子
  • 子ども時代の回想記における語りの諸相―神沢利子『いないいないばあや』を中心に― 阿久津斎木
  • 宮崎駿「シュナの旅」試論―「犬になった王子」は如何に語り直されたか?― 陶山 恵
「ワルトラワラ」(ワルトラワラの会) 14号 3.20
  • 扉のむこうへ―賢治のめざしたもの 第2部・銀河鉄道の終着駅(7) ジョバンニの切符 松田司郎
  • イーハトーブ異界への旅(14) ウメバチソウ 牛崎敏哉
  • 文語詩を読む その(3) 短歌から文語詩へ 「釜石よりの帰り」「製炭小屋」を中心に」 赤田秀子
  • 童話『耕耘部の時計』考 耕耘部・時計・赤シャツの男と馬 岡澤敏男
  • 宮沢賢治のプラネタリウム(3) 「春と修羅」の星空探検 加倉井厚夫
  • イーハトーヴの種子(4) 烏雑感 杉岡ふみ
  • イーハトーヴ料理館(12) 【新】校本宮沢賢治全集校異篇(第9巻・童話〔U〕)をたべる 中野由貴
「児童文学研究年報」(兵庫教育大学向川研究室) 第10号 3.31
  • 『日本少国民新聞』細目と解題―山本有三編『日本少国民文庫』考察のために― 遠藤 純
  • 台湾における南吉童話の受容林 文茜
  • 現代児童文学に見るキツネ―キツネに託された他者とのかかわり― 塚本美智子
  • 「車のいろは空のいろ」シリーズ化についての一考察 幾本幸代
  • 谷川俊太郎の詩創作における方法意識 田中美里
「国際児童文学館紀要」(大阪国際児童文学館) 第16号 3.31
  • 「小国民」誌の異版 上田信道
  • 我が国に於ける、絵本研究の嚆矢に関する一考察 永田桂子
  • 戦時下における宮沢賢治の受容―大陸移民と松田甚次郎― 遠藤 純
  • 『学習新聞』細目(2) 小松聡子
  • 大阪国際児童文学館における物語体験の可能性(8)―参加者の反応を手がかりに― 土居安子
  • 雑誌「日本之少年」(博文館)細目(2) 西嵜康雄・高橋静男・鳥越信
「新美南吉記念館 研究紀要」 第7号 3.×
  • 草稿「権狐」と定稿「ごん狐」の比較・検討からの提言
    沢田保彦
  • 東京における南吉の足跡調査についてU―南吉が暮らした中野区新井・上高田界隈―遠山光嗣
  • 安城における南吉顕彰のあゆみ(4)片山秀雄
  • 草稿「権狐」と定稿「ごん狐」の比較・検討からの提言―資料編―沢田保彦
「白百合女子大学児童文化センター」研究論文集 5 3.×
  • Up from Jericho Tel におけるファンタジー的要素の意味 横田順子
  • 明治期の幼年文学についての一考察 佐々木由美子
  • 近世における小人像の系譜―〈島巡り譚〉を中心に― 池田美桜
  • 江戸期から現代までの「かちかち山」絵本の変遷 沼賀美奈子
  • 巌谷小波日記 翻刻と注釈―明治29年― 猪狩友一・木村八重子・竹田修・中川理恵子・松井千恵
「論叢 児童文化」(くさむら社) 3号 4.23
  • 評伝 今西祐行(3) 関口安義
  • 若松賎子研究(3) 尾崎るみ
  • 子どもの英雄の近代(3) 加藤 理
  • バーバラ・クーニーの伝記的絵本作品について 中村悦子
  • 日本少国民文化協会の研究・覚書(3) 浅岡靖央
  • 児童文学評論・研究賞の一片史 上笙一郎
  • 児童文学と障害問題(3) 長谷川潮
「立命館言語文化研究」(立命館大学国際言語文化研究所) 13巻1号 5.31
  • まんが研究をめぐる諸「内と外」 ジャクリーヌ・ベルント
  • 昭和50年代のマンガ批評、その仕事と場所 宮本大人
  • マンガ表現論の「限界」をめぐって夏目房之介
  • 日本とアメリカにおける長編物語マンガの発展 小野耕世
  • インターネットにおけるマンガの展望 秋田孝宏
  • 少女マンガは「日本」の「少女」が求めるジャンルか―少女マンガの特性としての重層的な世界観― 藤本由香里
  • 心を癒す少女マンガと女性の病理化 Alwyn SPIES
  • まんが研究に関する一考察―少女まんが研究の視点から― 高橋瑞木
  • 「まんがはクリエイティブな世界ではない」 羅望菫子
  • 根源的「マンガの魅力」とは…―二階堂正宏のブラックユーモア作品分析― 牧野圭一
  • 近代カートゥーンの誕生 清水 勲
  • 問いを持続するために―あとがきにかえて― 吉村和真
「白百合児童文化」(白百合女子大学児童文化学会) 11 6.×
  • 「わたしの絵本づくり」講演録 杉田 豊
  • 宮崎博和の絵本を考える―自分をみつめるワニくん 西村醇子
  • 子どもの読書に関する実態調査 子どもと親へのアンケートと読み聞かせの実践から 藤井いづみ
  • 明治期における幼児教育と幼年文学 佐々木由美子
  • 北原白秋ノート(十1)『思ひ出』をめぐって 宮沢賢治
  • スザンナ・タマーロ―大人のための児童文学― マリア・エレナ・ティシ
  • 読者論の諸相 阿久津斎木・石井直人・神戸万知・佐々木由美子・藤代恵美子
  • 書評 ドクター・スース、J・プレラツキー著 ドクター・スース、レイン・スミス 絵神宮輝夫訳『とてもすてきなわたしの学校』 佐々木由美子
  • 書評 アーサー・ランサム著 神宮輝夫訳『ロンドンのボヘミアン』 神戸万知
  • 書評 神宮輝夫監修 上原里佳他著『ほんとうはこんな本が読みたかった!』『だから読まずにいられない!』 井辻朱美
  • 書評 小澤俊夫編著『昔話のイメージ3』 沼賀美奈子
  • 書評 ゲイル・カーソン・レヴィン著 三辺律子訳『さよなら、「いい子」の魔法』 宮崎麻子
  • 書評 勝尾金弥著『巌谷小波 お伽作家への道―日記を手がかりに』 猪狩友一
  • 書評 ドクター・スース著・絵 井辻朱美訳『グリンチ』 若松宣子
  • 物語の空間的ひろがり 小澤俊夫
  • E・T・A・ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王さま』における幻想の境界 若松宣子
  • 『トムは真夜中の庭で』におけるファンタスティックな要素の意味―記憶と夢の変容― 林 祐子
  • 卒業論文 プリデイン物語のおける英雄像について―アメリカの新しい英雄物語― 中嶋麻喜
  • 卒業論文 少女マンガ 闘うヒロイン論 和田慎二の果たした役割 野邑繭子
[日本児童文学]
  1. 「少年教育雑誌『とも』の研究」 岡谷英明 「美作女子大学・短期大学部紀要」46号 36-44頁 3.10
  2. 「明治期の翻訳児童文学」 向川幹雄 「言語表現研究」(兵庫教育大学言語表現学会)第17号 7-29頁 3.15
  3. 「童話における登場のさせ方について―予測できない登場者を中心に―」 小田澄子 「安田女子大学大学院文学研究科紀要」第6集 85-100頁 3.30
  4. 「キリスト教児童文学誌『光の子』前期の諸相―創刊から1936年3月号まで―」 服部裕子 「名古屋短期大学研究紀要」第39号 123-133頁 3.31
  5. 「児童文学作品における情景描写について―新美南吉・坪田譲治・浜田広介・小川未明・千葉省三―」 小田澄子 「解釈」通巻552・553集 53-58頁 4.1
(続く)


 
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お母様の童話―お話の種とお話の仕方

  蘆谷蘆村著
  文化生活研究会刊
  大正15年5月10日発行

 シリーズ「母性読本」の一冊。「母性読本」は、本書の他に、『幼児の図画教育』『こどもと音楽』『童謡』『こどもと文学』『我子の手芸』『我子の心理』『子供とお菓子―製り方と与へ方』などがあり(広告)、子育ての啓蒙を図った実用書の色合いが濃い。本書も副題が示すように、物語を多く収録し、実際に話せるよう意図されている。
 「はしがき」に、「童話はまだ専門の童話家と学校の先生方によつて取扱はれるだけで、家庭における童話教育といふことはまだまだ等閑にされてゐるやうであります」と現状を述べる。ここでの「童話」は口演童話のことであるが、本文中では、昔話と同義に使用している箇所もある。童話が口演童話と昔話の両義で使用されているのは、語りの対象になる話がほとんど昔話、あるいは昔話風だったからだろうか。
 本書の目的は、「童話がどういふものであるか、童話が何故必要であるか、童話は子どもに何を与へるかといふやうなことについて大体の知識を与へ、またお母様方のお話の材料として最も適切なものを供給する」ことにあった。全体の三分の一が理論編、残り三分の二が例話にあてられている。本書のような内容は、蘆村も「初めての試み」であるという。
 全体は理論部分と例話一九話からなる。理論編は次に示すように、六章で構成されている。

第一章 リオネルのお話
第二章 主知主義の失敗
第三章 童話の教育的意義
第四章 童話が子どもに与へる喜び
第五章 お母様の童話の必要
第六章 子供の心の発達と童話
 さて、論述の根底にあるのは、「宗教と芸術とは、人間の感情に訴へる点において同じはたらきを為すもので、芸術のない人には宗教が芸術の代りをつとめ、宗教のない人には芸術が宗教の役をとつめる」とあって、宗教と芸術(童話)の同一視である。子どもの芸術には童謡や童画もあるが、童話はそれらにはない「深いもの」があるとして、「桃太郎」「舌切雀」などの昔話をあげ、祖先が見いだした「生活の理想」が語られていると主張する。ここでは童話は昔話を意味している。
 童話と修身談との違いは、善人ばかりが登場するか、悪人も登場するか、また題材やテーマが局限されたものか、社会一般の広いものかであると述べ、「童話によつて社会人生とといふものは、どの様なものであるかといふことを、生き生きした想像をはたらかせて十分に学ぶことが出来る」とする。現在でも、深層心理学の視点から昔話には人生の知恵が含まれているとする見方がある。直観的ながら類似する意見である。
 成人の芸術と、童話との違いを、童話の根本は正義であるが、成人の芸術は必ずしもそうではなく悲劇があるとハムレットを例に述べる。正義の世界という点に「童話と、宗教との結合点」があり、われわれの正義の観念は、幼年時代に触れた童話から学んだものが多いので、教育上の童話の使命は重大だというのだが、いささか強引。
 童話が、正義でなければならないとすれば、創作童話はどうなるか。近頃の作品には、めでたしでおわらないものもたくさんあるが、優れた作家のものは、かならず正義を暗示しているという。しかし、順序を逆にして正義を暗示しているから優れていると判断する可能性もあるのだから、啓蒙書とはいえ、もう少し丁寧に述べてもらいたいところ。
 第四章では、童話が子どもに喜ばれる理由について言及する。童話は、盛んな子どもの好奇心を満足させ想像力に訴え、子どもの心の中に潜む根強い要求に基づいている。根強い要求は、鬼ごっこ遊びを例に説明される。大昔の人間が感じた自然の脅威による恐怖心が、文明社会になっても心の底に潜在していて、それが何かの形となってあらわれるという。子どもは「小さい野蛮人」のようなもので、そういう潜在心が露骨にあらわれるとする。個体史を人類史とだぶらせて、子どもの心性即ち原始の人類の心性とみるのは、当代ではよくみられる。
 人間の心の中には、そうした古い習性が潜在しており、「適度に発露させないと、心が鬱屈して不健全になり易い」ので、遊戯や童話は、こういう潜在心の安全弁の役を果たすという。
 宝物や小人、超自然的能力など童話の種々の空想的産物は、子どもの心性とに適合することを述べたあと、童話にある正義が、子どもの道徳的感情を満足させると強調する。正義がキーワードとなっている。
 第五章では、お話を口演童話の専門家に任せるのではなく、童話の本体である、父母が暇をみて子どもに話をする「炉辺譚」の復興を唱える。話術の巧妙では得られない親愛の情が生まれ「家庭の愛を増す上にどの位力のあるものであるかは、想像以上もの」であると説く。家庭内での語りが、少なくとも都市部ではすでに姿を消し、口演童話家の活躍が目立っていたことが分かる。民間説話集の草分けのひとつといってもいい石井研堂『日本全国国民童話集』が出たのは明治四四年である。「炉辺譚」の消失と民話集の採集とに相関関係をみるなら、家庭内の語りが失われたことを反省する時間が蘆村のような提言を促したというべきだろう。もっとも語りの消失自体は、巌谷小波「日本昔話」に遡ることができようが。
 蘆村は、坪内逍遥が家庭の語りを「家庭童話術」として推奨している一文を紹介している。蘆村の主張は、逍遥の意見とも重なる。時代の雰囲気として家庭の語りの復興があったのである。
 第六章では、子どもの発達を心理学的に四期にわけ、それぞれにどのような童話が適応するかを述べるが、教科書的。
 例話編は、母親が「幼稚園程度から十四五歳位まで」の子どもに話すに適切なものを選んだという。しかし、全体に小学生程度で、十四五歳位に適すかどうかは疑問。グリムをはじめ、西欧の昔話で占められ、写実的な創作はない。
 最初の「お菓子の家」は、「ヘンゼルとグレーテル」の再話。「註」に「これは一体まゝ子いぢめを材料たお話で、教育上有害」なので、「まゝこ子いぢめの部分を削り去り、お菓子の家の部分だけをとつて、このお話をこしらへました」とある。今では、昔話の〈継子苛め〉を表面的にしか見ていないという批判されるところである。

(藤本芳則)




 
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竹貫佳水の経歴考―博文館入社まで―(その2)

上田信道


 (承前)
 攻玉社を卒えた佳水は、東京市の雇員を経て、陸軍・臨時測図部の雇員となった。
 臨時測図部とは、日清戦争に伴って組織された大本営直轄の臨時機関で、日清戦争中の一八九四(明27)年一一月に編成された。『陸地測量部沿革誌』(一九二一 陸地測量部刊)によると、「最簡易ナル測図々式ニ依リ我軍隊ノ占領セシ作戦経過ノ地形ヲ測図セシメ他日ノ資料ニ備ヘ置ク」ことを目的としている。陸軍では測図手を募集して二百二十六名を採用し、翌年の「二月三日ヨリ順次戦地ニ向ヒ」出発させた。佳水の履歴書には「二月一日 遼東半島ヘ出張ヲ命ス(陸軍省)」とあるから、佳水はまさに第一陣として戦地への赴任を命じられたことになる。
 このとき佳水は二〇歳。最初の本格的な対外戦争の勃発を、身につけた技術を国家のために役立てる機会ととらえて、自ら志願したものであろう。臨時測図部の雇員とはいっても、戦地で測量を行うのであるからかなり危険な仕事である。兵役に服して出征する場合とほとんど変わりはない。事実、臨時測図部には招集されたのちあらためて「戦時勤務」として配属された兵員も所属しているので、仮に佳水が招集されていたとしても臨時測図部に配属されたものと思われる。であるから、佳水の測図手への志願に兵役逃れという意味はなく、使命感に燃えた志願であったというように理解すべきであろう。何ら反戦的または非戦的な意図はなかったと考えてよい。
 佳水の履歴書によれば、日清戦争終結後の「一八九五(明28)年七月一日 帰朝」とある。これは、いわゆる三国干渉によって遼東半島が清国へいったん返還されたことによって任務が終了したものであろう。しかし、佳水の戦地での体験が、どのようなものであったかは詳らかではない。
 ただ、佳水は「冒険世界」誌に「秘密軍事測量」という記事を寄稿しているので、この記事によって佳水の任務の一端を垣間見ることができる。掲載の号は第一巻第七号(一九〇八年七月号)で、《竹貫直人》の名前による寄稿である。
 まず、冒頭の一節である。
 僕は今でこそ斯様して穏順しく東京に居るが、これでも二三年前までは盛んに冒険をやつたものだ。知つて居るものは知つて居るであらう、僕の前半生は測量師であつた。其時の友人が今でも参謀本部に沢山居る。
 斯様なことは云つて可いことか悪いことか知らぬが、日清戦争が済んでから一年ばかり後のこと、其筋から内命が下つて、某国へ秘密軍事測量に出掛けたことがあつた。其時の冒険談をいざ物語らう。聞いて呉れ給へ。
 一読してわかるように、佳水の経歴と体験にそった書きぶりになっている。ここでは出張先が「某国」とのみあるが、別の箇所では「某国は今は我が帝国の殆んど属国のやうになつて了つた」云々という記述があるので、読者には容易にいわゆる「日韓併合」前の朝鮮であることがわかるようになっている。
 佳水の履歴書によると、陸軍の命令によって一八九五(明28)年九月二〇日に朝鮮ヘむけて出張している。したがって、この記事はおそらくそのときの体験を反映したものだと思われる。「冒険世界」では実録冒険ものを売り物にしていたので、この記事もノンフィクションものと受け止めてよいのではないだろうか。
 さて、この記事によると、「僕」たち派遣された測図手の一行は総勢「四十有余人」であったが、各地に入り込むにしたがって「五人一組、三人一組と云ふ有様」になった。最初のうちは用心して「腰にはピストル、手には仕込杖と云ふやうに、一通りの護身用具は身に付けて居た」が、「思ひの外無事泰平」であるので「身軽に、図板を肩に、鉛筆一本を手にして、呑気に測量して歩るいた」という。しかし、だんだん内地に入るにしたがって危険な状態になり、投石によって同僚の一人が死亡。さらに「二人の同僚は暴徒の手に捕えられて、無残極まる嬲り殺しに逢ひ、加之に市場に曝し物にされた」のである。
 その日、「僕」は同僚の「小山君」と「相田君」の三人で測量に行ったところ多勢の群集に襲撃される。「僕」は測量の三脚を振廻しながら「血路を開いて」退くことができたが、三人はバラバラになった。「日本人が秘密に測量して居ると云ふことが露顕すると、国交上の問題になつて、大変なことにならないとも限らない」ので、「僕」は本部にしている宿にとって返して、まず「測量し上げた図」を回収する。そして、「僕」は留守番に残っていた「輸夫」を連れてピストルと仕込杖で武装し、二人の同僚を救いに出かけたが、もとの場所には同僚の姿も群集の姿も見えない。
 後でわかったことによると、同僚たちは「無惨なるかな、牛のやうに鼻に針金を通されて、村から村へと宿送りにされて、四十貫文で或る赤髯に売られた」のだという。「赤髯は矢張り此国へ秘密測量に入り込んで来た奴」であった。「憎い青眼玉、何処まで我が国民を苦しめるつもりだ」とか、「三十七八年戦役(日露戦争―引用者)の大捷」によって「最早敵を取つて了つ」たとあるので、この「赤髯」がロシア人をさすことはあきらかである。
佳水が日本を出発した翌月の八日には、京城の宮廷内でクーデターが起こっている。これは、日本人壮士と軍隊が大院君を擁して親露派の閔妃を殺害した事件で、測図手らへの襲撃事件は、こうしたクーデター事件にともなう反日感情の高まりの反映であろう。
 なお、測図手たちが「何を云つたつて僕等は、他国から入り込んで秘密測量をやつて居る身分だ、無暗な乱暴は出来ん」「真実だ、何方かと云へば罪は此方にあるんだからなア」と会話をかわしていることから、彼らの任務の性格がよくわかる。日清戦争の直後から日露両国のスパイ戦が始まっていたのであり、佳水がその一端を担っていたというのは興味深いエピソードではないだろうか。
 相田君も、小山君も、軍人ではないが国難に殉じたと云ふ廉を以つて、特に靖国神社へ合祀された。瞑すべしである。瞑すべしである。僕は逃げたばかりに碌々として生を貪つて居る。勲章一ツ貰へない、思へば両君が羨しい!
 結末部はこのように締めくくられている。
 もとより、この記事が必ずしも佳水の実体験をそのままに書いたノンフィクションものだという保証はないが、全体として《竹貫直人》が第一人称で自分の体験を語るという体裁になっていることは事実である。仮に多少のフィクションが交じっているとしても、佳水の戦争体験のありようを想像させるに充分な内容ではないだろうか。
(続く)


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