インターネット版

児童文学資料研究
No.90

発行日 2002年11月15日


目  次


四冊の「桃太郎」絵本大藤幹夫
『世界未来記』(「冒険世界」増刊号)その2上田信道
呉 文聡について藤本芳則



四冊の「桃太郎」絵本

 大藤幹夫



 ここに取り上げる「桃太郎」絵本は、いずれも講談社(1,2,3は、大日本雄弁会講談社)発行のもので、画家はすべて斎藤五百枝である。発行順に並べてみる。
  1. (子供が良くなる 講談社の絵本 桃太郎) 昭和12年1月1日発行 絵・斎藤五百枝 文・松村武雄 ※復刻版による
  2. (コドモ ヱバナシ・ムカシバナシ モモタラウ) 昭和19年1月1日発行 文・千葉省三 絵・斎藤五百枝
  3. (講談社の絵本 桃太郎) 昭和27年8月20日発行 絵・斎藤五百枝 文・松村武雄
  4. (新・講談社の絵本 桃太郎) 2001年5月20日発行 画・斎藤五百枝 文・構成:千葉幹夫
 (2)は、「ミンナヨイコ」(澤井一三郎)、「ザウニ ノッテ ススム」(岩崎大子・絵)「イサマシイ スヰジャウセントウキ」(高井貞二・絵) 「オミヤマイリ」(河目悌二・絵)「コジカトトラ」(黒崎義介・絵 久米元一・文) 「ゲキチン テントリ アソビ」(中野正治・絵)があって、「一冊一テ―マ」(阿部紀子「「講談社の絵本」の功罪」、『はじめて学ぶ 日本の絵本史2 十五年戦争下の絵本』収録。ミネルヴァ書房、2002)ではない。正確には絵雑誌とよぶべきだろう。阿部氏も指摘するように初版に較べて「紙、印刷、製本の質も格段に悪くなった」。
 それぞれの版の刊行意図を取り上げて見る。
 (1)ついては、作家・画家の言葉はないが、巻末にある「なぜ桃太郎は日本人に好かれるでせう」で久留島武彦が「犬は忠実な家来で今の歩兵の役目、猿は、す早く木へ登つたり、木から木へ飛び渡つたり又遠くを見たりする今の工兵、雉は翼の力によつて敵を偵察し、いざ襲撃となると偉い力を発揮する騎兵や航空兵の任務を果したのでせう。勇将の下に弱卒なしで、皆心を協せて目覚ましい働をいたしました。(略)戦は大勝利、目出度く凱旋して、恩あるおぢいさん、おばあさんを喜ばせ、世の為、人々の為にも難儀を救ひました。 私は日本の子供はみんな桃太郎のやうな気分の子供になることを希望します」と当時の読み方を示唆している。(2)の巻末にある編輯局名の「お母さまがたへ」に「気はやさしくて力持ちの兵隊さんたちは、今はるかな海を越えて、日本国民の大理想をさまたげる、米英の鬼共を討ち懲らしてゐるのであります。」と解説している。(3)の扉に作者の松村武雄が「「桃太郎」について」を書いている。「「桃太郎」は、内容が、いかにも尚武的で、しかも、むやみにたけだけしく、好戦的な気分は持っていない、気がやさしくて、弱い者の苦しみを思いやって、強くてよこしまな者をくじくところに、任侠の貴い精神が、明かるくみなぎっており、その点からいって、おのずと男の子にいい読物となっています。」と、よくわからない言葉を書き連ねている。(4)の巻頭に安野光雅の文章がある。「桃太郎は海の彼方を眺める紅顔の美少年だったから、よけいに新鮮だった。」とある。確かに表紙は、戦前の版と同じだが、中味は阿部紀子氏が厳しく指摘する(「研究「子どもと文化」第9号収録、「『新・講談社の絵本』の問題点」、中部子どもと文化研究会 2002.7)ように、到底「復刻版」とは言えない代物である。阿部氏はこの復刊の意図を「有名文化人をそろえて、祖父母世代の郷愁に訴え、孫にプレゼントさせることを講談社はねらったのだろうか。」と推察しておられる。
つぎに場面割りを見る。
 (1)は二十八場面といちばん多く、(2)は十場面、(3)は二十七場面、(4)は二十二場面。近似値になる(1)と(3)を較べてみると、(1)のラストの場面、桃太郎が鬼が島から帰ってきて、おじいさん、おばさんと一緒に「オミヤヘ オレイニマヰリマス」の場面が(3)では欠落している。この欠落は他の絵本も同じである。(また、(3)のラスト場面にあたるおじいさんとおばあさんが、帰還する桃太郎を出迎える場面の絵は、上段に縮小され、下段に文章と桃の絵が書き入れられてある)結局、桃太郎話は(2)(3)(4)とも「三匹の動物を共に鬼を退治して宝物を持ち帰る」話(講談社の絵本 クラウン版『桃太郎』昭和三十七年十一月号 下)になっている。(1)は「神仏の加護」すなわち「皇室への忠誠」「日本精神」を強調する読み物としての性格を示していることになる。
 場面数の大きく違う(1)と(2)を較べて、(2)に欠落した場面をみると、「オヂイサント 二人デ タベヨウ」とおばあさんが、桃を持ち帰る場面、次のおじいさんが「アマリミゴトナ モモナノデ スグニハ キリカネテ」いる場面、桃太郎が「タラヒヲ ツカンデ グット サシアゲ」る場面、おぢいさん、おばあさんの「カタヲ モンデアゲマシタ」の場面、「オニガシマヘ オニセイバツ」に出かけることをおじいさん、おばあさんに申し出る場面、「おじいさんとおばあさんが、出陣する桃太郎を見送る場面、二人が桃太郎の無事帰還を「オミヤ」に祈る場面、犬と猿がいがみ合う場面、雉が飛んでくる場面、雉が家来になることを申し出る場面、船の上で「桃太郎ガ コテヲカザ」す場面、鬼が島の情景場面、鬼の家来が、鬼の「タイシヤウ」に桃太郎の襲撃を告げる場面、桃太郎と鬼の「タイシヤウ」と一騎打ちをする場面、鬼が「タカラモノ」を差し出す場面、帰還の船出をする場面、おじいさんとおばあさんが、桃太郎を出迎える場面、ラストの「オミヤヘ オレイ」に行く場面である。繰り返しになるが、(1)は、桃太郎の性格よりも、「神の加護」による鬼征伐を強調した絵本である。他の版にはない「鬼が島をば 攻め伏せて とった宝は 何々ぞ」の「桃太郎の歌」が添付される由縁である。
 「日本一」の旗を振りかざして歩く場面は同じだが、(1)は犬と猿、桃太郎しか描かれていない。(2)では、雉の場面が欠落したために、三匹の家来と桃太郎の道中姿になっている。
 (1)と(2)の絵柄の違う場面を上げてみる。(2)の表紙の絵は、(1)と違って桃太郎は、手をかざして立っている。第一場面にあたる「オヂイサンハ ヤマヘ シバカリニ オバアサンハ カハヘ センタクニ」の場面は、(1)と違って、(2)では、おじいさんとおばあさんの向きが逆になっている。鬼を拉ぐ場面も、鬼の向きが左右逆になっている。おばあさんが桃を拾う場面も中腰ではなく、立っている((2))。桃太郎の誕生場面も、(1)では桃太郎を真ん中におじいさんとおばあさんが見とれているが、(2)では二人とも右に寄っている。桃太郎出陣の場面も同じで、(1)では桃太郎は中央に立つが、(2)では左端に立っている。桃太郎が、犬に「キビダンゴ」をやる場面でも、桃太郎は腰掛け((1))ずに立ったまま((2))である。船の中でも、桃太郎は座ら((1))ず立ったまま。(2)では、桃太郎はいつも立っているのである。宝物を持ち帰る場面でも、桃太郎は、先頭に((1))立たず、後方に立って((2))「アフギヲヒライテ」いる。
 こうしてみると、明らかに(2)には書き換え・修正が行なわれたことがわかる。
 (3)は(1)に比して、ラストのお宮参りが削除されて一場面少ない。
 (4)について、阿部紀子氏は「場面を省いた例」として、桃太郎が出陣した後、おじいさんとおばあさんがお宮参りをする箇所をあげておられる。「戦時中盛んだった戦勝祈願のお宮参りを挟み込んだとして、指摘されることの多い場面」と上げておられるが、戦後の昭和二十七年発行になる「桃太郎」でもこの場面は採用されている。ここは二人が「どうか 桃太郎の からだにけがの ないように」と祈る親心が提示され、ラストの「桃太郎が ぶじに かえって きたので、めでたい めでたいと いって よろこびました」と相応されるのではなかろうか。この場面については、先の『はじめて学ぶ 日本の絵本史U』の「講談社の絵本―昔話」で西田良子氏も指摘しておられる。西田氏によれば「当時の出征兵士の家族が武運長久を祈る姿と重なり」「いかにも戦時下の絵本らしい」とされる。だが問題はラストの場面が省かれたことだろう。すなわち「オミヤへ オレイニマヰリマシタ」の場面の欠落である。(1)で「オニセイバツ」が出来たのも「神の加護」によるものであることが強調された場面と読み取れる。ここに「戦時下の絵本らしさ」が表れている。(だからこそ戦後版の(3)ではカットされたに違いない。)
 また、阿部氏が「部分的差し替えの例」として桃太郎出陣の場面で掛け軸に「武神」とある箇所が「桜の花で塗りつぶ」されている場面を取り上げておられる。しかし、すでに(3)でも「塗りつぶし」はなされている。(4)が最初ではない。(2)では、構図が変わって、掛け軸が左端に寄って「武神」の字は半分消えかかっているが、かすかに「武神」と読める。「武神」は戦前版にしか認められない。
 また、桃太郎が帰還する場面での「旗を書き加えて修正」されたと指摘のある場面も、すでに(2)で修正されている。(未完)



『世界未来記』(「冒険世界」増刊号)その2

 上田信道


 (承前)
 次に、主要な記事について解説する。
 「鉄車王国」(押川春浪)は、ドイツを盟主とする欧洲列国同盟が東洋への侵略を企てる。東洋では大日本帝国が韓国を「保護」し、清国を「扶助」し、シャムやチベットを「撫育」しているため、ついに人種間戦争が勃発。北方の孤島に拠った日本の志士たちが陸海空を自由に走行できる巨大な要塞を完成させ、東洋の危機に際して起つ、という荒唐無稽なストーリーの中編である。小杉未醒の筆になる口絵「全世界大動乱! 鉄車王国出現!」を附す。臨時増刊号の目玉となる作品であるが、これについては『百年前の二十世紀』(横田順彌 1994 筑摩書房)に詳しいので、詳細はそちらに譲る。
 「世界大動乱の根源となる英独戦争」(浅田江村)は、近未来におこる英独戦争を予測するノンフィクション。英国の雑誌などを参照しながら、英独戦争を予測する。「欧洲の禍乱は惹いて東洋に及び、米国にも及び、それこそ世界的の大動乱となる」可能性に論及する。たまたま四年後の第一次大戦で予測が的中したが、「独逸は決して左様な無謀の挙に出でるものでないことは、殆ど疑ひを容れぬ」ということが結論であった。
 「海底戦争未来記」(海底魔王)は192×年、すなわちこの臨時増刊号の発行から十数年後に発生する英露戦争を描いたフィクション。チベットの支配権をめぐって英露の両国が戦端をひらく。日露戦争の痛手から立ち直ったバルチック艦隊が英国北方の海域で交戦し、敵をあなどった英国海軍は思わぬ敗戦を喫する。このとき、英国の潜航艇が活躍して形勢が逆転する、というストーリーである。
 春浪の「鉄車王国」があまりにも荒唐無稽な要塞を出現させているに比し、未来の海戦に潜航艇が重要な役割をはたすことを予測したあたりには、それなりにリアリティーがある。
 「神力博士の生物製造」(閃電子こと三津木春影)は人造生物をつくりあげたマッドサイエンティストと小説家が争うというSFものである。外国ものの翻案と思われるが、詳細は不明。
 「日米戦争夢物語」(虎髯大尉こと阿武天風)は、冒頭附近に「米国では近来大分日米戦争の小説が流行つて居るやうだから、吾輩も一つ書いて見た次第である」とある。軍事探偵ものに実らぬ恋をからませ、さらにSF的な展開に発展させた。いかにも春浪の影響を受けた天風らしい小品である。前半は、来るべき日米戦争に備えて米国と欧州の某国の間に結ばれた秘密条約をめぐるスパイ小説風の展開。後半は一転して日米間の近未来戦争へと発展する。
 この未来戦記では、兵員50人が乗り組み時速200マイルで飛行する大型飛行機や、無線操縦の特殊潜航艇が活躍する。ちなみに、これが書かれた時点では、まだ、日本では飛行機の初飛行さえ実現していなかった。
 「明治百年東京繁昌記」(坪谷水哉)は、明治天皇の在位百年を祝うため、列国の代表が東京に集まる趣向の未来予測である。東海道鉄道は二十数年前に広軌の高速鉄道へ改造。シベリア鉄道も五昼夜で欧亜大陸を横断。ベーリング海峡には海底鉄道が布設されている。ドイツ皇太子は無着陸のまま飛行機で東京に到達する。東京の人口は六百万を数え、観光客は空中飛行機で観覧が可能。地上には、雷など空中の電力を吸収する電気蓄槽を装備した自動車が走り回っている。国立公園の富士山には、頂上にまで登山鉄道が敷設され、空中飛行機の停留所も設けられている。
 的中した予測もかなりあるが、「気が附けば、今までのは総て夢」という締めくくりになっている。
 「愉快と便利を極めたる黄金時代の都会生活」(白衣道人)は遥か未来の東京を舞台に、田舎から東京見物に来た叔父を案内する、という設定の物語である。未来都市では、三百階建の高層ビルや無線電話と遠距離現影装置の組み合わせ(携帯テレビ電話のようなもの)が実用化されている。百代目団十郎と九十八代目菊五郎の共演を明鏡(テレビのようなもの)で見物する趣向が面白い。滑稽仕立ての未来予測である。
 こうした荒唐無稽な未来予測ものが並ぶ中で、「官営しるこ専売局」(黒面魔人)は、社会諷刺をきかせた未来予測の物語として異彩を放っている。
 しるこ業が政府の専売事業化される。そのため、「来食人」と呼ばれる客は、サーベルを下げた門衛から「オイコラツ」とどなりつけられたり、しるこの「願書」を書かされて窓口をたらい回しにされたりする、という滑稽なストーリーである。
 「約三四時間を費した上に、彼方では剣突を食ひ、此方では怒鳴られ、さらでだに忙しい世の中を、散々な目に会はされたが、斯うなると官営しる粉も考へ物ぢやテ。」と締めくくられ、お役所仕事を皮肉っている。
 この臨時増刊号には、食料が専売化されたために高騰。「沢庵一本を噛らんと欲して娘を売飛ばす」云々という「未来の専売局」(無署名)もある。「官営しるこ専売局」では、しるこの願書に代書料五銭也を徴集され、しるこ一杯五銭ぐらいと思っていたところを十五銭もとられて、庶民が散々な目にあう結末になっている。
 たいへん面白いことに、この作品は新作落語「善哉公社」と同じアイデアによってできている。
 いまでは、東京の噺家も「善哉公社」を演じているが、《しるこ》を《善哉》と言い換えていることからみて、おそらくこのネタは上方落語に由来するものであろう。関東と関西とでは《善哉》の意味が違う。「大辞林」によれば「関東では、餅に濃いあんをかけたもの、関西ではつぶしあんで作った汁粉」だという。
 一説によると、「善哉公社」は昭和三〇年代の新作落語だそうだが、真偽のほどは調べがつかない。ただ、「冒険世界」の《専売局》といういかにも古めかしい名称が、落語では《公社》という比較的新しい名称になっているから、成立の前後関係はおのずと明らかであろう。
 なお、「官営しるこ専売局」では、来食人がしるこ部長の令嬢の一行だとわかると、門衛の扱いが急に丁重になって、しるこの代金も受け取らない。そういう展開が落語とは違う。
 一方、落語のさげでは「この善哉、甘いことも何ともないやないか」と抗議する庶民に、お役人は「甘い汁は当公社が総て吸っております」と答えている。このくだりは「官営しるこ専売局」には見られない。

 19世紀末から20世紀始めにかけて、未来予測ものの雑誌・単行本がかなり多く刊行されている。その中で、従来はあまり注目されてこなかったが、この臨時増刊号はもっと重視されてしかるべきものではないかと思う。(完)


呉文聡について

 藤本芳則


 『八ツ山羊』の訳者呉文聡は、統計学者として広く知られているはずだが、基本的情報である生年(月)が事典により異なっている。次にいくつかを列記してみる。

  1. 嘉永4年11月(『明治人名辞典3 (下)』八紘社、大2年[1994年複刻版])
  2. 嘉永4年12月(『日本人名大事典』平凡社、昭12年7月[1986年複刻版])
  3. 1851年(『国立国会図書館著者名典拠録』紀伊國屋書店、昭54年)
  4. 1854年(『日本著者名・人名典拠録』日外アソシエーツ、1989年)
  5. 1851年(『コンサイス日本人名事典(改訂新版机上版)』三省堂、1990年改訂版、所見1994年)
  6. 1852年1月27日(『日本児童文学大事典』大日本図書)
 嘉永四年は1851年であるから、(1)(2)(5)は生年が一致、他は異なる。生年が一致するものも、月まで記述しているものでは1月のズレがある。
 人物の生年月日は、年代を遡るほど困難になるのが普通だし、事典(辞典)の記述にまま誤記があるのも常識だが、これほど食い違う例は多くない。生年だけでなく、『コンサイス日本人名事典』では、「くれぶんそう」を見出しとしている。
 呉文聡に関する文献は、(A)『呉文聡』(呉建編著、私家版、大9年10月)、(B)『呉文聡』(13回忌の記念出版として、大正9年年版を増補。原田高博編集者兼発行者、昭8年8月)、(C)『先考呉文聡先生』(44回忌法要記念で100部限定非売品、呉文炳・呉直彦編著、理想社、昭36年7月)、(D)『呉文聡著作集』全3巻(第3巻が伝記、東京日本経営史研究所、1973年)などがある。以下親族によって編まれた最初の3冊A〜Cのうち主としてAに依って述べる。
 Aには、追悼文のほかに、友人や子ども達の回想文、さらに文聡の自伝的文章「子供たちの為め」が収録されている。それによれば、生年月日は嘉永4(1851)年11月27日。ただし、戸籍は計算の便利上12月1日になっている由。先述の(1)(2)がちょうど実際の生年月と戸籍上のそれとに対応することになる。
 呉といういささか珍しい姓は、文聡の父黄石が芸州広島の出身で、文聡が生まれた年、山田姓を改め、港の名をとって呉としたという。『呉黄石先生小伝』(呉秀三郎)にも呉と改姓した旨がある。ただしその時期は異なる。
 黄石は、蕃書調所教授の箕作阮甫と交わりがあった。阮甫の娘さきを後妻に迎え、生まれた最初の男の子が文聡である。文聡と名付けたのは、阮甫である。少年時代には、漢学や英学を学び、一時福沢諭吉の塾にも行っている。
 ところで、箕作貞一郎(麟祥)は、阮甫の末女の子で、文聡のいとこにあたる。明治を迎えるころから英語を本格的に勉強しはじめた文聡は、箕作貞一郎(麟祥)を頼り、麟祥の塾にいるうち、理学書や歴史くらいは読めるようになる。いったん大学南校にはいるが、レベルが低くて出てしまう。そののち、再び慶応義塾に入るが、しばらくするうち、福沢に、塾の風儀に反するからと止めさせられてしまう。
 『複刻版 明治の児童文学 翻訳編 第1巻グリム集』(五月書房、1999年6月)の「あとがき」で、榊原貴教は、川戸道昭編『慶応義塾出身明治期西洋翻訳者略伝』から、次のような一文を紹介している。
 グリムの翻訳としては同じ慶応義塾出身の菅了法の訳した『古事神仙叢話』(集成社、明治20年)に次いで旧く、慶応義塾出身者の西洋児童文学との深いつながりを実証する上で欠かすことのできない文献の一つとなっている
 呉と慶応義塾との関係は、いま述べたように明治のはじめ頃福沢によって退塾させられたが、明治三〇年頃に統計学の講師を依頼されたのを機に「段々と感情も融和」(「子供たちの為め」)したもので、終始良好だったわけではない。『八ツ山羊』の翻訳は、慶応義塾とは、疎遠な時期のものであり、西洋児童文学との「深いつながり」がどれほどのものか。
 『八ツ山羊』が出版された明治20年ころ、文聡は何をしていたのであろうか。明治19年ころ「逓信省が出来たとき、自然に逓信省へ入つて記録課と云ふのに勤め」(「子供たちの為め」)る。逓信省では統計を担当した。というのもそれ以前に統計学を学んでおり、明治10年前後には、開成学校で英国の統計雑誌などをもとに統計学を講義している。しかし、「今までやつた統計をもツと充分にやるには英学ばかりでは参考書が少くて可けない、それで独逸を学ばうと斯う考へ」て、独逸学者についてドイツ語を学習しはじめたのがちょうどこの頃だったらしい。
 文聡の著書の大部分は統計に関するものであり、自ら語るところでは、「書物を拵へたのは、明治一八九年ころ統計詳説と云ふ本を拵へた」(「子供たちの為め」)のだが、統計以外の本もわずかながら出している。その一冊が、『八ツ山羊』だが、それ以前にも、明治6年に翻訳『天学新説』(全2冊か、未見)があるほか、刊行年不明の『教訓道志留辺』(友善社、初編国会図書館蔵、未見)もある。
 呉文聡は、統計を専門としたため、「文学の結びつきはほとんどない」(岩波文庫『日本児童文学名作集』解説)にもかかわらず、『八ツ山羊』をはじめ読み物を残したのは、なぜだろうか。いくつか気になる点をあげておこう。
 まず、いとこの箕作麟祥と親交があり、英語を学んでいることである。いうまでもなく、箕作には『勧善訓蒙』の訳述がある。文聡の『教訓道志留辺』などもその影響があるかもしれない。
 二つ目には、ちょうど『八ツ山羊』の出版されたころは、文聡がドイツ語の学習に打込んでいた時期と重なると思われること。『八ツ山羊』の原書は、ドイツ語だったのか英語訳だったのか。ドイツ語だと、たとえば勉学の一環とも考えられるが、英語だと何か理由があたのだろうか。たんなる憶測だが、経済的理由があったかもしれない。
 三つ目には、文聡の子どもに対する教育的関心である。娘の一人敏子の回想に、「父は私どもの小さいときに、能くお伽話を話して呉れました」(「小松敏子談」)と見える。几帳面な性格で、子どもの教育にも注意を払ったらしい。追悼の意味をもった文章での言及だが、他の子どもたちの証言からも、子どもの教育に意見をもっていたらしいことがわかる。
 敏子の回想の続きに、次のような興味深い部分がある。
小さいときに父の拵へました山羊のお伽話や狐のお伽話の本を見たことがございました。縮緬のやうな紙に刷つてあつて、木版摺の綺麗な絵が這入つて居りました。(「小松敏子談」)
 「山羊のお伽話」は、おそらく縮緬本の『八ツ山羊』であったろうと思われる。もうひとつの「狐のお伽話」も文聡の作だとすれば、「西洋昔噺」シリーズの知られざる一冊の可能性も残る。