インターネット版
児童文学資料研究
No.91
発行日 2003年2月15日
目 次
(承前)
先には、絵を中心に比較を重ねたが、今回は共通する場面の記述面の比較を行う。
四冊の「桃太郎」絵本に共通する図柄場面は、婆が桃を拾い上げる場面、桃太郎誕生、爺と婆が桃太郎の出陣の支度をする場面、犬との出会い、桃太郎一行が船出する、鬼が島に乗り込む、鬼の大将を取り押さえる、一行が宝物を引いて帰る場面の八箇所になる。
まず、婆が桃を拾い上げる場面を見よう。
- 「アッチノミヅハ カアライゾ コッチノミヅハ アアマイゾ カアライミヅハ ヨケテコイ アアマイミヅハ ヨッテコイ」ト ウタヒマスト モモハ ヒトリデニ オバアサンノ ハウヘ ヨッテキマシタ。オバアサンハ テバヤク ソレヲ ヒロヒアゲマシタ。
- (唱えごとは無く)「マア マア、コレハ メズラシイ。」ト、オバアサンハ ソノ モモヲ タラヒニ イレ、オホヨロコビデ オウチヘ モッテ カヘリマシタ。
- ((1)と同じ唱えごと)「まあ、おおきな ももだこと。」おばあさんは よろこんで かわから ももを ひろいあげました。
- (唱えごと)おばあさんは、ももを手ばやくひろいあげました。
少しずつニュアンスの違いを見せていることがわかる。近年、この唱えごとの内容をめぐって論議され、消滅の方向にあると聞く。
次は、桃太郎誕生の場面である。
- 「オヂイチャン マッテチャウダイ」ト イフコヱガシマシタ。オヂイサンハ ビックリシテ ハウチャウヲ ヒッコメマシタ。ト タチマチ モモガ ポント二ツニワレテ ナカカラ マルマルト フトッタ カハイイ ヲトコノコガ テヲヒロゲナガラ トビダシマシタ。
- オヂイサンガ ソノ モモヲ ワラウト シマスト、モモハ ヒトリデニ フタツニ ワレテ、ナカカラ マルマルト フトッタ、ヲトコノコ ガ ウマレマシタ。
- おじいさんは おもいきって ももを きろうと しました。すると、ももの なかから、「おじいちゃん まって ちょうだい。」と いうこえが しました。おじいさんが びっくりして、ほうちょうを ひっこめますと、おおきな ももが ぽんと 二つにわれて、なかから まるまると ふとった かわいい おとこの こが とびだしました。
- (おじいさんが)台所からほうちょうをもってきました。そして、ももをきろうとしたときです。/ももが、ぱっと二つにわれて、なかから、かわいい男の子がとびだしてきました。
(1)(3)は同じ作者(松村武雄)。これは、巌谷小波の『桃太郎』(既出)を踏襲した表現である。すなわち「すると、不思議や桃の中から、可愛らしい子供の声で、『お爺さん暫らく待た!』と、云ふかと思ふと其桃が、左右にさッと割れて、其中から一人の嬰児が、ヒョッコリ踊り出しました。」というものである。
(2)では「フトッタ、ヲトコノコ」、戦後版(4)にいたって「かわいさ」が求められる。時代を反映した箇所と読める。
桃太郎出陣の場面である。
- (鬼征伐を申し出た後) 桃太郎ハ「ヒャウラウニ キビダンゴヲ コシラヘテ クダサイ」ト タノミマシタ。 オバアサンハ「ホントニ イクサニハ ヒャウラウガ タイセツジャ」ト スグニ メデタイ 日本一ノ キビダンゴヲ コシラヘハジメマシタ。オヂイサンハ 桃太郎ノソバニツキソッテ ヨロヒヲ キセタリ カタナヲ ササセタリ イロイロト テツダッテヤリマシタ。
- 「ワタクシハ オニガシマヘ オニタイジニ マヰリマス。ドウゾ キビダンゴヲ コシラへテクダサイ。」ト イヒマシタ。オヂイサント オバアサンハ、オイシイオダンゴヲ コシラヘテ ヤリマシタ。モモタラウハ ソレヲ モッテ、イサンデ イヘヲ デカケマシタ。
- 桃太郎が おばあさんに きびだんごを こしらえてくださいと たのみますと、おばあさんは よろこんで、めでたい日本一の きびだんごを せっせと つくりはじめました。おじいさんは 桃太郎に よろいを きせたり、かたなを だして やったり して、でかけるしたくを して やりました。
- 「旅のとちゅうの食べものに、日本一のきびだんごをつくってあげよう」/おばあさんはそういって、きびだんごをたくさんつくりました。/おじいさんは、桃太郎のしたくを手伝います。/桃太郎はよろいをきて、こしに刀をさしました。
(1)(2)(3)では、桃太郎の方から黍団子をねがっているのに対して、(4)ではおばあさんの側から申し出ることになっている。親と子のありようが示されているようでおもしろい。また、(2)だけが爺、婆が力を合わせて団子作りに精を出しているのは、話として直線的で評価できる。
犬との出会いは、繰り返しの問答場面である。四冊の違いは少ない。(1)と(3)が同じ作者で「オニセイバツ」。(2)と(4)が「オニタイジ」。(1)(2)(3)は「ケライ」になるが、(4)だけ「オトモ」になって行く。後年、「きびだんごをひとつもらってすぐけらいになるのもあまりいじきたなくていいことではありません。」と批判される(小学館版『ももたろう』解説・波多野勤子、1967)箇所である。
船出のシーンは絵柄はほとんど差異はなく、((2)だけ、桃太郎は船の中央に立って、小手を翳している)(1)(3)(4)とも、それぞれが「コギテニ ナリマセウ」などと動物たちが役割分担を示すところであるが、(2)は「モモタラウハ・・・オニガシマヘ ワタリマシタ」と素っ気ない。
鬼が島に乗り込んでの桃太郎に注目すれば、
- 桃太郎ハ マッサキニ フネカラ トビオリテ モンノトコロニ カケイッテ 「モンヲアケロ」ト ドンドン タタキマシタ。
- モモタラウハ モンヲ ウチヤブッテ、イヌト イッショニ ワット シロノナカニ セメイリマシタ。
- 桃太郎は、まっさきに ふねからおりて、しろの もんの まえに すすみ、「もんをあけろ、もんをあけろ。」と、おおごえで さけびました。
- 桃太郎と犬、さるは、城のなかにおどりこみました。
同じ作者の(1)と(3)に微妙な違いが読み取れる。(1)では、戸を叩く積極性が見られるが、(3)では「おおごえで さけぶ」ばかりである。(4)の腰の引けた表現に比して、(2)は何ともいさましい。
鬼の大将を取り押さえる場面はほとんど同じスタイル。桃太郎絵本の象徴的場面で、今にも引き継がれている。(細かく見れば、(2)のみ鬼がうつ伏せに取り押さえられる向きが右向きになっている。)
ここでは鬼に向かっていう桃太郎のセリフを写しておこう。
- 「ドウダ マダ ワルイコトヲ スルキカ。スルナラ イノチヲトルゾ」
- (セリフなし)
- 「どうだ、まだ わるい ことを する きか。するなら いのちを とるぞ。」
- 「まだわるいことをするなら、この首をとるぞ。」
(4)のセリフは直裁的である。小波の「法の通り首を刎ね、瓦となして屋根の上に梟す」に通じるかもしれない。
最後に「宝物を引いて家に戻る」場面である。ここでも桃太郎に注目したい。
- 桃太郎ハ アフギヲヒライテ ケライタチト イッショニ オウチヘ イソギマシタ。
- モモタラウハ イヌ サル キジノ ケライタチニ、ソノ タカラモノヲ ハコバセテ、イサマシク イヘニ カヘリマシタ。
- 桃太郎は おうぎを ひらいて、けらいたちと いっしょに おうちへ いそぎました。
- 桃太郎もおうぎをひろげて、「えんやらや、えんやらや」と、かけ声をかけます。
(4)では「けらい」という表現を避けようとしてか、響きが弱い。
表現の比較となると、どうしても同じ作者の(1)と(3)が重なってしまう。それでも幾分かの差異が見られた。絵と比べると文章の違いはあまり大きいと言えない。当然のことながら絵が中心の「桃太郎」絵本である。(2)が時代的なテーマに忠実で、積極的な桃太郎を描いているのが印象的だった。
前稿同様、(4)が(1)の復刻版というには距離があるという結論が導き引き出せる。
『講話自在模範のお噺集』
岩田九郎 著
大正9年6月12日初版
大正9年6月20日再版
大日本図書 刊 |
本書は、前、後編からなり、前編に、著者が口演した話を収録。後編には、「これまで実際に地方の研究者から寄せられた「お尋ね」を集めて整理し、之れに細かな解答」を添えたものを掲載する。「お尋ね」は全部で20問。そのうちのいくつかをピックアップして、紹介してみたい。
最初の問いは、児童講話通俗講話の仕方についてどんな事柄を研究したらよいか、というもの。答えとして、「心理的研究」「話の組み立ての研究」「言語及語法の研究」「音声の研究」「態度の研究」の五項目をあげている。
「心理的研究」とは、聴衆の心理や話の会場に漂う気分などを研究することで話の効果をあげようというもの。「話の組み立ての研究」では、「通俗講話の聴衆は、一般に程度が低い」ので、そのままに述べたのでは駄目で、「話全体変化をつけたり、処々に面白いことを入れて笑はせたり、或は悲しい事柄を入れてなかせたり、種々な苦心」が必要だと述べる。「通俗講話の聴衆」のなかには、子どもも含まれているのだろう。聞き漏らしても聞き直すことはできないこととか、聞き手の側では話の速度を調節できないことなど、聞くこと自体のもつ特性に留意せず、「程度が低い」と片付けてしまうのは問題があるにせよ、実演者としての実感がうかがえる。「態度の研究」では、場合によっては、「態度則身振り」が、ことば以上に力をもつことがあるのので、重要だとする。語りには、意識的におおげさな身振りを否定する立場もあるが、身振りを重視する口演童話家は少なくない。
問の二番目は、聴衆の心理は如何なるものかというもの。答えとして、「個性の消失」「感情の感応」「虚栄心」「想像力と推理力」「感情の誇大性」をあげる。個々にあらわれた性質が、集団になると変質することをまず述べ、以下いかに聴き手の注意をひきつけるかについて説く。ここでも経験に裏付けられた発言が多くみられる。
「児童の心理状態に適するやうなお噺の材料を得るにはどんな事を注意したら宜しいでせうか。」との問が六番目にある。答えとして、幼稚園から小学校低学年むけには、必ずしも原因結果が首尾一貫する必要はなく、場面が面白ければよいとする。しかし、これでは、ストーリーに矛盾があっても面白い場面が多ければよいということにもなりかねない。これも経験からの発言であろうが、当代にストーリーのきちんとした話があまり育っていなかったことと関係するのだろうか。
幼児向けの注意点として、擬音語などいくつかを指摘したなかで、「空想」の必要を述べているのに注意したい。「よし材料を実際談に取るとしても、空想的の部分を入れて話さくてはいけない」とまでいう。当代には「空想」を否定する意見が根強く、巌谷小波なども反論を述べている。岩田も、「児童をして誇大妄想狂たらしめるものだと言つて排斥するものもあるけれども、此等は全くの杞憂」という。
小学上級になると、事実談が、空想的幻想的な噺に代って歓迎されるので、英雄豪傑の武勇談が望ましいとされる。歴史上の偉人のまえに身近な教師や村長、巡査などを対象にし、順次進めていくとよいと、具体的に解答している。また、情操教育にも意を用い、「国体の尊厳、皇室の稜威等を知らしめ、尊王愛国の精神を十分に打込まなくてはならぬ」という。著者岩田の子ども向けの話に期するところが如実に示されている。口演童話に娯楽としての側面と、皇国思想を浸透させるという意図が率直に表明されている。
問いの八番目は、話の構成である。これには、五つにわたり指摘がある。絵のように組み立てること、話の全体は数個の節に分かち各節に興味があること、中心人物が、最初から最後まで働くこと、登場人物は少なく極端な性格であること、話の中心は終り近くにすること、である。
絵のように組み立てるとは、劇の場面を聴衆が描けるように組み立てるということ。極端な性格などは、昔話の人物像を連想させる。聞いてイメージしやすいことが言われているのだろう。中心人物が全体にわたって活動するというのは、物語の筋が枝分かれしないで一直線に展開することを意味するのだろう。つまりドラマとして聴衆に関心をもたせ、最後に山場をもってくる起承転結のはっきりした話が推奨されているようである。多人数への話は、どうしても大衆的な興味性を踏まえる必要があるためか、九番目に「聴衆を笑はせるにはどんな方法がありますか」という問のみられる。
当代の児童文学に、笑いは乏しい。しかし、口演童話では必要不可欠といってもいい要素であった。岩田はこれについて、「語法、声音、身振の三方面」から回答する。まず、語法では、「反復と誇張と語呂と極端なる思想の取合せ」をあげる。反復がもっとも上品な笑いといい、三度の繰り返しの例が示される。文章で読む限りは面白くもなんともないが、話されると笑いが生まれるという。こういう指摘に出会うと、実際に口演童話を聞かず、台本だけで批評する難しさを感じる。声音は、「奇抜な音の連続」をいう。例にあげられているのは、落語にある「じゅげむ」である。身振は、注意をしないと品格をさげると注意をうながし、結局笑いは、話の手段であって目的ではないと釘をさしている。笑いは必要としながらも、笑いそのものを楽しことは、岩田の考えにはない。
泣かせる方法も問われているが、省略する。
話の種についての問いでは、外国作品の場合は、完全に日本化しなければならないと述べる。当代でも口演の世界では翻案が珍しくなかったことをうかがわせる。馴染みの無い人名や地名では、子どもたちの興味をひきつけられないからだろう。
続いて、話の種を実際の話す話とするには、どうすればいいかという問いがあり、聴衆の年齢、時間を考慮し、話の中心点を吟味し、草稿をつくれと回答している。
最後に、「お話研究会」の組織作りのノウハウを具体的に述べる。口演童話の理論書は少なくないが、研究会の組織のありかたまで言及したのは稀である。実際にもそうした質問があったのだろう。
(藤本芳則)
名門出版社のリストラ騒動〜「博文館騒動記」ほか〜(1) | 上田信道 |
博文館は明治期を代表する最大手の名門出版社であったが、新興の実業之日本社に猛追される。明治末には、ついに業界の首座から転落する憂き目を見た。
大正に入ってしばらくすると、平成の世でも大流行のリストラが断行されることになった。館主(社長)以下の人事の更迭がそれである。
このリストラ騒動について『博文館五十年史』(坪谷善四郎編 一九三七年六月一五日 博文館)を繙くと、一九一七(大6)年の項に、次の記述を見いだすことができる。
今年は博文館創業第三十周年に際し、館主は博文館経営の任を副館主大橋進一氏に委ね、同時に編輯局に一大ママ陶汰を行ふて面目を一新した。即ち五月二十八日先づ坪谷善四郎の編輯部長を転じて、新たに設けたる総務部長とし、管理部に勤務せしめ、更に六月一日に至り、多数主要記者の更迭を行つた。
もとより『博文館五十年史』は公式の社史であるから、経営不振のことには言及せず、「創業第三十周年に際し」云々と、あたかも創業記念の一環として人事の更迭が行われたかのように記述されている。
しかし、このとき社長を退いた第二代館主の大橋新太郎は、初代館主の大橋佐平の後を引き継ぎ、博文館を業界最大手の出版社にまで育て上げた功労者である。その功労者が経営を退いた。しかも、同時に多数の主要な編集記者を更迭したのである。
当時の編集記者は、今日の編集者とは役割が違う。その雑誌の主要な執筆者と編集者を兼ね備えた存在で、文字どおり雑誌の顔であった。編集記者の人気の消長が、雑誌の売り上げに直結した時代のことである。そういう役割をはたしている雑誌編集記者の多数を更迭したのだから、博文館のリストラ騒動は出版界を揺るがす大事件となった。
ここで取り上げる「博文館騒動記」は、「日本一」誌の第三巻第七号(一九一七年七月号)に掲載された。署名は「本町子」とある。赤城四十八の署名記事「出版界の両雄 博文館と実業之日本社」(以下、単に「博文館と実業之日本社」)の中に独立したコラムの形で配され、リストラ騒動が面白おかしく取り上げられている。
本稿では成人むけ雑誌に関係する記述の紹介は最小限にとどめ、児童・学生向けの雑誌に関する記述を主として取り上げる。併せて「博文館と実業之日本社」のうち、関連する記述を適宜取り混ぜながら紹介していくことにしたい。
もとより興味本位の記事というものは、信憑性に欠けるうらみがある。しかし、社史のような正史には伝えられていない事実を反映していることも事実であるから、ここに紹介しておくことも無益ではあるまい。
当時の博文館の経営状況について、「博文館と実業之日本社」では、次のように書かれている。
博文館の改革は、二三年後れて居るといふが、確に此両三年の博文館は、人をして強弩の末勢を思はしめた。雑誌の方も(中略)『少年世界』は、『日本少年』に及ばず『文芸倶楽部』は『講談倶楽部』に及ばず、僅かに、一昨年来『講談雑誌』が珍らしきレコードを持続して居るのみであるママ、 『冒険世界』『英語世界』『生活』『農業世界』の如きは、缺損のやうにも聞いて居る。昨年帝国興信所が発表した調査によるも、早晩、一改革の止むべからざるを思はしめたが、遂に大英断は下された。今度出された連中も、之は止むを得ないと諦めて居る程沈滞して居たのである。
右の記事からわかるように、この頃の博文館はかなり深刻な経営不振に陥っていたようだ。
坪谷水哉は、博文館で長く編輯局長と執筆者をつとめ、辣腕をふるっていた。そのような功績のある水哉までが、リストラ騒ぎの渦中で、職を退かざるを得なくなっている。
そうした事態を「博文館騒動記」では、「今年ア何も彼も善四郎でなくて凶四郎の坪谷水哉君、暫く親分大橋の若主人『スネーク』坊ツちやんの教育顧問として踏み止つた」云々と、坪谷水哉の本名《善四郎》を《凶四郎》に掛けて揶揄し、面白おかしく報じている。
同様のことを「博文館と実業之日本社」では、やや客観的な報道ぶりを装いながら、それでもたっぷりと皮肉を込めて、次のように記している。
相当の文才を有し、相当以上に世才を有する彼は、吾侭至極の文士と、一徹者の『館主』との間に介在して、苦しい役目を勤めて来たママ、彼が『館主』を口にして諸種の命令を伝達する事を非常に不愉快として悪罵する人もあるが、悪罵されながらも、纏めるものは纏めてゆく処に、彼の価値がある。今回の『博文館』の改革に際しても、彼は、首になる連中に自分も引退せしめらるゝ事になつたのだからと説き廻つたが、蓋をママ明けて見れば彼だけは顧問として毎日出勤し、名実ともに多く旧と変る処がないさうである。かういふ処が、彼の苦心の存する処でもあり彼の彼たる処でもあらう。何とか言はれても、あれだけの改革を無事平穏に始末した手腕は老巧である。
(未完)
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