インターネット版

児童文学資料研究
No.92


発行日 2003年5月15日


目  次


「「ともしび」によせて」大藤幹夫
与田凖一『子供への構想』藤本芳則
名門出版社のリストラ騒動〜「博文館騒動記」ほか〜(2)上田信道

「「ともしび」によせて」

  『ともしび』収録
  昭和16年12月26日 発行
  博文館

 本稿「「ともしび」によせて」(『目次』表記は、「「ともしび」について」)は、28ページにわたる著者自身による作品解説である。
 本書には「ともしび」という作品は収録されていない。収録作品は、「大根の葉」「風車」「赤いステッキ」「窓」「霧の街」「眼鏡」の六作である。「ともしび」と題する作品は別に存在する。
 なぜ『ともしび』と表題されたのか。そこに壺井作品のテーマともいうべきものが込められてある。
 「不幸を背負つて此世に生れ出て来た者、云はば光りとぼしい者たちのために、いささかでもこの一巻に収めた諸作品が、闇の中のともしびとしての役目を担ふものでありたいといふ希望を、行間にこめたつもりである。」「この一巻が、今はまだ幼い克子やその兄妹たちの将来に於て、生活へのともしびとなつてくれることを希つてやまない。」とある。直接の思いは、壺井作品の主人公・克子たちへの思いとしての「ともしび」かもしれないが、その作品が、時代の「子ども」への「ともしび」を願ったものとも受け取れる。
 著者によると「私が初めて書いた小説は、昭和十年に「婦人文芸」に発表した「月給日」といふ十五枚ほどのものであつた。」と記している。手近にある《日本の文学》『佐多稲子 壺井栄』(中央公論社・昭和54年3月15日  11版)の「年譜」には、昭和九年に「処女作「長屋スケッチ」を雑誌「進歩」に書く」とある。(著者は、「海の音」という作品を「昭和十二年の秋、「自由」と云ふ雑誌に発表した。」と書くが、先の「年譜」には、昭和13年2月「自由」に発表、としている。)
 本稿には、興味深いエピソードが書き連ねられてあるが、次のエピソードは中でも注目したいひとつになる。
 「私は周囲の人におだてられてものを書き出したといふ、多少変形的な姿で文学への出発をした」とある。「たまたま友だち同志寄り合つた時などに、私が語る郷里の村の話を、聞き手の窪川稲子さんが大変に興味を持たれて、/「あなた、書けるわよ、そのままお書きなさいよ、そのまんま、あなたが話してることをそのまま」/などと早口でけしかける。(略)「あなたはきつと子供のものが書ける人ですよ、ほんとに。あなたは書けることを知らないのよ」/そんな風にも言つてくれた。」
 「子供のものが書ける人」という発言に目を止めたい。
 窪川の勧めてくれた、坪田譲治の「風の中の子供」は「大さう糧になつた。」そして、「大根の葉」が書き上げられた。「この一つのものを書くことだけが自分の一生の目的ででもあるかのやうに、「大根の葉」に心魂を打ちこめてゐた。(略)夢の間も「大根の葉」を思ひ、夢の中でも仕事をしてゐた。」銭湯の湯槽につかりながらも、窪川に教えを受けた。窪川が不在の時には、宮本百合子のところへ出向いた。
 二人の指導の仕方が面白い。「窪川さんは主に口で云つて下さる方であり、宮本さんは、先ず鉛筆を片手に持つて私と向ひ合ひ、時には並び、その場で原稿用紙の欄外に注意を書込むと云つた方法であつた。まさに師と弟子との間柄と云ふべきである。」
 関口安義に「壺井栄の児童文学の原型」とされた(「国文学 解釈と鑑賞」1997.10)文壇的処女作「大根の葉」に触れた記述が多い。栄にとって意味の大きさがわかる。
 「大根の葉」が書き上げられたのは、「昭和十二年の春頃」。宮本百合子の手で文芸春秋社に預けられることになる。「「文芸春秋」に載せてくれるなら本望だから、もう思ひ残しはないから、死んでもいい」などと、壺井繁治に話したという。年が明けても掲載されるよ
うすが見られないことで、宮本が「原稿を取り返して」、「人民文庫」に持ち込んでくれた。しかし、「人民文庫」が廃刊になり、「書き改めて三度目にお目見えした」のが、「文芸」だったという。掲載されたのは「書き上げてから一年半ぶりの昭和十三年九月号」であった。先の関口によれば、「改稿八回の努力の賜物」になる。
 「「大根の葉」が意外なほど好評を受けたためか、そのあと、あまり苦労することなく今日に到つてゐる」。栄にとって「大根の葉」が、作家としてどれほど大きな意味をもっていたかがわかる。
 ある人は「母の文学」といい、朝日新聞から「育児日記をかけといふ手紙が来た。」
 部屋に飾ってある「大根の葉」の主人公・克子の写真を見て、新聞社の学芸部の人は、「壺井さんを作家にしたのはこの子ですか」と、言ったという。
 「克子たちの成長につれて、その姿をかき続けて行つたものが、私の文学の特徴として、大体に好意的な批評を受け、そのことで作家としての小さな地位を築いたとするならば、克子が私を作家にしたといふやうな、結果的なことも云ひ得るかも知れない。」
 おもしろいのは、そうした反響とは別に、栄自身「大根の葉」は、「克子よりもその兄である健とその母への関心から出て、健をとり
まく村の人たち、その村人たちの持つ世界をかくことに眼目をおいてゐた。」のだった。
 収録されている「風車」は、「伸びるだけ腕を伸ばさうとする子供たちの姿を書いた」。「大根の葉」に劣るという人や、「はるかにしのいでゐる」という人があった。「風車」には、「「大根の葉」に於ける遊びがない」と評されもした。しかし、栄にとって「風車」は、「心組みは、ずつと変つて来てゐた」作品だった。
 読者の反響から、「文学少女的な気持はだんだん少なくなり(略)あるがままの不幸に止めておけなくなつた」。
 昭和15年8月「改造」に発表された「窓」は、「思ひがけぬ不幸に直面しての悲しみ、その悲しみから立ち直つた時の覚悟(あきらめとはちがふ)、将来へ向つての心の持ち方への希望といふやうなものを、作者は現したかつた」のだが、世評は、「涙つぽいもの、世の片
隅に小さく生きてゐる者の悲しい物語」と扱った。
 「単なる人情噺とか、社会性の不足といふやうな批評に対しては、私の心にうなづけないものがある。」という心情は、以後の栄作品の批評に対する終生の思いがあるように思われる。
 「霧の街」では、「私はこらへ性もなく涙を流し、感情の整理もせずに打ちまけた(略)幾度ペンを投出して泣いたことだらう。」という。
 「克子が、今後どのやうに進み、又どんなにして起き上るか、そして私はその克子にどんな風にして手を貸し、どんな言葉で励まし、希望を持たせてゆくかが、母代りとなる私に課せられた今後の任務である。」と、作品のモデルとの関係を吐露している。「又克子の母は、どんな気持で克子を手離すか、それも私の心に残された問題である。」との視点は、読者として関心を引く。
 「理性と母性愛とが、愛児を失つたやうなあとで、夫婦生活の上にどのやうに結びつき、よれ合ひ、そして、どんな道を辿る結果となるか、それは私の文学の上にとつても今後に残された大きな問題であると思ふ。」は、壺井栄文学を読み解くひとつのヒントを与え
ているように思われる。
「ともあれ、「ともしび」一巻は克子一家のために、あくまで生活のともしびでありたいと願ふ心であり、その心もちから、私は「ともしび」といふ題をつけたのである。光りほのかなともしびであるかも知れない。」と、長い作品解説は閉じられている。

(大藤幹夫)



『子供への構想』

  与田凖一
  昭和17年7月15日
  帝国教育出版部発行

 「児童文学をこころざして二十年、そのあひだに書きつゞけてきた勉強記」が、本書である。おおむね昭和一〇年代に雑誌等に寄稿したものを収録する。
 全体は、発表年代により区分され、「三集」で構成される。「一集」は昭和13年から17年の発表作、「二集」は書評、「三集」は、昭和8年から12年までのもの。
 新しい時期のものには、独特の表現が多く判然としない部分が目立つ。当代の状況の中では読めたものの、半世紀以上も経過したためおぼろげになってしまったのか、それとも昭和17年という時代の中で、明言しがたことを述べようとして屈折した文章になったものか。
 全部で40編が収録されている。内容で整理分類されていないため、多方面の話題が混在しているが、繰り返し現われるテーマがある。それは、「童心」への批判と、坪田譲治への賛辞である。この二つは別々にあるのではなく、「童心」批判の具体的作品として、「善太と三平」が注目されている。この二点にかかわる文章を、とりあげたいが、その前に、書名にもなっている「子供への構想」について触れておく。これは、「(序にかへて)」とあって、最初におかれている。独特の文体を紹介するために、最初の段落を抜出してみる。

少国民文学について、いま、わたくしに定義づけることは難しい。いはば、それは容易なことだからである。わたくし自身に、また他
の場合に、さういふ思考の侵す軽率さを、見すぎて来たやうに思はれてならない。
 このような文体で児童文学が俎上にのせられる。同人雑誌などではなく、一般向けの単行本に掲載している点が気になる。児童文学批評が、文学として〈深化〉してきたのだろうか。それとも先述のように、時代の中で屈折した表現をとらざるを得なかったものか。
少国民文学が、国民生活の支えを持たぬ徳目文学に堕さないためには、作家の内側にどんな感動がえ挙がり、どんな子供への構想が、が、まざまざと描きだされなければならないであろうか。大東亜戦争がわたくしたちにまざまざと映し出しつゝあるものは、その点、興味深い。
が結論部分。国民生活とは、「大東亜戦争」下における生活であり、時局迎合と判じるのは容易だが、それにしてはいささかまわりくどい表現である。読みようによっては、時局への皮肉と受け取れるようなところもないではない。
 まず、「童心」批判からみてみよう。「「童心」の陥穽」に、「「童心」が問題語として珍重された当時は、現実生活つまり環境に楔子をおいて考へられた児童なり児童文学ではなかつたもののやうである。」という部分がある。「当時」とは大正末から昭和にかけての時期をさしている。「子供は天使であり、別世界の住人だといふ大人達の感傷」によるものとして、童話ばかりではなく、ラジオ、レコード、新聞雑誌の子供欄を挙げて批判。「今日この「現実」の客観に結合させて児童文学の新分野をひらかんとしつつ」ある「若き自覚の幾人」かあることを期待すると結ぶ。与田がこう書いたとき、まだ30歳になっていないので、自己の決意を表明したも
のともとれる。
 「童心」とは対照的な「教化」はどうか。「児童文学の教化性」で、雑誌「教育」掲載の「風の中の子供」をめぐる座談会から、教育家と作家の見解を引きつつ、児童文学の教化について述べている。児童文学に教化を求めることについては、否定的な立場をとりつつも、豊島与志雄の発言にみられる文学至上主義的意見にも、賛意を示さない。つまりは、教育に重心をおくでもなく、バランスをとった見解を述べる。教育家、作家それぞれの立場で、児童への「ヒユーマニチーが根本となつてゐるに相違」なく、肝心なのは、この「ヒユーマニチー」を「強烈に燃や」すことだとする。ここから、「作家の生活」が、大人の文学では問題にされてきたのに、児童文学では言及されないことが問題だと指摘する。
 なぜか。「児童文学動くべし」にその理由が説明されている。成人作家にくらべ童話作家は、詩人の風貌があるという。それは、成人文学作家の文学は、「作家自身のヂカの生活の中」に追求されるが、童話作家の場合は、「「童話」の生活と(あるひは「童話」の現実と)多く対蹠的」だからである。「対蹠的」なのは、童話作家が子どもではないという根本的なところにも理由がある。そして、童話作家の生活の不安定が、「「童話」の安定の中へ、作家を逃避させる」からである。
 「児童文学動くべし」では、大正から昭和初期の「童心」による童話童謡があったことにも触れられている。その「童心」は、社会状況の変転などによりその影響を受ける。「児童が成人生活のなかに呼吸し生長する限り、このことはまぬがれぬ。」という。この「事実」に気付いて自覚しつつあるのは、「作家」よりも「教師」だという。
 現実の子どもへの関心を説くのは、未だ従前の「童心」に傾斜する作家作品が多いからであろう。とすれば、与田が、坪田譲治に惹かれるのも当然である。
 児童の生活を重視する与田は、「童話と児童生活の十字街」として学校生活に着目する。その結果「新しい観念に於ける「童話作家」出でよ、教師たちの中から。」(「童話の周囲」)と叫ぶにいたる。
 坪田譲治の評価は、「坪田氏ほど、まざまざとしたビジヨンを与へてくれる(あるひはそれに生きてゐる)作家は尠い。」(「童話文学の方向」)と高い。「それに生きてゐる」というのは、作品と童話作家の生活に深い相関をみているからである。
 さらに、
「赤い鳥」の休刊直前からあらはれて、復刊より今日まで、愈々油ののりきつて来た坪田譲治の作品こそは、児童の社会生活をテーマとしてゐるものとして注目されていいし、三重吉も「赤い鳥」復活が無意義でなかつたことをこの一事でもつてしても、まんぞくされてよからう。(「児童文学の動向」)
とまでいう。与田の主な関心事が、「児童の社会生活」にあることは、坪田の「黒猫の家」に言及して、「この作は、子供に於ける原始生活のあらはれで、健康な筆致もわるくない。初歩的な児童相互の社会生活が顔を出してもゐるが、この点をもつともつと突つこんで貰ひたい」と希望をのべている点からも明らかだろう。しかし、一般に言及されることの多い「魔法」は、空想の世界へ移ってきていると、消極的な評価である(「児童文学の現状」)。

(藤本芳則)




名門出版社のリストラ騒動〜「博文館騒動記」ほか〜(2)

上田信道


 (承前)

 また、「博文館と実業之日本社」では、リストラ騒動の原因のひとつに、スター編集記者たちの給与の高騰をあげている。

▲社員の待遇は、博文館も決して悪い方ではない(ママ)巌谷小波の給料は五百五十円といふが違つて居るとしても大した差異はあるまい。浅田江村が、俺も二百円の給料を貰うやうになつたと喜んだのも大分以前の事である。今度首になつた松原廿三階堂や、竹貫佳水などの尠からざる私財を擁して居る処を見ると、其待遇の程も推し測られる。今度の改革も、一ツには給料の整理をせん為めで、先づ高給者より首にしたといふ事である。
 いつの時代でも、どのような会社や組織でも、経営トップの責任は不問にされ、まず社員の人件費の削減から手がつけられるということだろう。
  それでは、局長以下の人事異動はどのようなものであったか。
 「博文館騒動記」には、次のように報じられている。
▲(前略)邪魔になる古枝が払はれたので、時ならぬ日光を拝むことの出来た仲間は、(中略)阿武天風の後任たる『冒険世界』の長瀬春風並びに、長瀬の後を襲うて之れが助手となつた、元『戦争実記』の秋山昌雄等である。
▲竹貫佳水が『中学世界』から『少年世界』へ転じ葛原■{(滋−シ)/(凶−メ}の後を襲うたのは、栄転か左遷か、竹貫の相棒だつた鷹野止水は、退職と同時に故山に帰り、只管父君への孝養を尽すさうだ。
▲竹貫の後へ新たに来たのが『東京日々』に居た為藤五郎であるが、高師英文科の出身だと云ふから『中学世界』の主任には適任かも知れない。為藤の外、今度の動揺に際して新たに入つて来たのは、竹貫の助手として石黒露男、『幼年世界』の主任武田鴬塘の助手として、『幼年画報』の主任を兼ねた新井弘城等が、先づその主なるものである。
▲而して、巌谷小波は『少年』『幼年』『少女』の三世界、並びに『幼年画報』の四少年物の顧問、毎月巻頭小説、又はお伽噺の執筆を依嘱されることになつたのは、頗る妙案と謂ふべきである。
▲要するに、今度の改革は、高給の館員及び他に対して公然兼職を有する者を馘首し、以て積年沈滞せる館内の空気を一掃し、又一面経済上の節約を図るに出でたものと見るのは善意の解釈であらう。
 引用文中の新井弘城(1894〜1986)は、本名を南部新一。《弘城》は「こうじょう」とも「ひろくに」とも読む。後年は、主として南部ひろくに亘国の名で執筆活動を行っていた。
 晩年の南部は、豆本『回想の博文館』(1973年2月28日 日本古書通信社)を著し、博文館入社当時の状況を詳細に記録した。豆本という体裁ながら貴重な証言が多く含まれ、この頃の博文館の内部事情を伝える文献として必読の文献とされている。
 まず、入社の事情について。少年時代からあこがれていた博文館に初出社した日のことを次のように書いている。
 少年のときにいだいた、私のながい悲願の夢が実現したのは、大正四年の初夏、二二才のときであつた。前夜、地方新聞につとめていた奈良をたつて、どしやぶりの雨の中を、はじめての東海道線で上京、博文館に小波先生をお訪ねしたときは、日本晴れとなつていた。(中略)
 大正三年の春から、私の書いたものが、『幼年世界』と『少年世界』に掲載されて、原稿料をいたゞいていたので、明かるい将来の希望はもつていた。それがいま、あこがれの殿堂にのぼれる喜びに、無我夢中で洋館の玄関をはいつた。
 次に、社内の様子について。少年部(児童雑誌関係の部署)の状況について、次のような記述がある。
 局長(坪谷善四郎のこと―引用者)の左手なゝめの一廓が、少年部であつて、小波主幹の机の前に、左右向かいあつた机があり、『少年世界』の葛原■{(滋−シ)/(凶−メ}先生と助手の女屋秀彦さん、『幼年世界』の武田桜桃(鴬塘の別号―引用者)先生と助手の私、『少女世界』の沼田笠峰先生と、池川修三君の順にならび、私は『幼年画報』の助手もかねていた。
 こうして、南部は「博文館騒動記」に書かれた人事異動騒ぎの際に入社。実業之日本社や大日本雄弁会講談社など後発の新興出版社に圧されて振るわない社運の挽回に努めた。のちには『少年少女譚海』の創刊にかかわるなど、「雑誌の大工さん」とまであだ名されようになった。
 また、経営不振の責任をとって引退したはずの坪谷がなおも「局長」の座にあったこと。少なくとも実質的には「局長」としての役割を果たしていたことがわかる。
 しかし、大正期に断行された博文館のリストラの効果は、一時的なものにとどまり、成功することはなかった。
 少年少女むけの雑誌について言えば、実業之日本社の諸雑誌は巧みな宣伝や各種の読者サービスの充実によって発行部数を伸ばすことに成功している。なによりも、新しい感覚をもったスター編集記者を取りそろえ、魅力的な読物を掲載して、博文館の追随を許さなかった。
 さらに後発の大日本雄弁会講談社では、雑誌の編集記者がその雑誌の主要な執筆者を兼ねるスタイルを改め、編集者と執筆者の分離という新しいスタイルを確立しつつあった。
 人事異動や人件費の削減のような小手先の改革によって、社運の回復を図れるような段階では、もはやなかったのである。
 結局、さしもの博文館も衰退を重ね、第三代館主・大橋進一の代に廃業せざるを得なくなっていく。博文館の正式な廃業は、1947(昭22)年のことと記録されている。(完)