インターネット版

児童文学資料研究
No.92

発行日 2003年8月15日


目  次


児童文化の新出発 ☆日本児童文化協会成立について☆大藤幹夫
周郷 博「児童読物の現在と将来への課題」大藤幹夫
「文士の所得税しらべ」について上田信道
内山憲尚『仏教童話とその活用』藤本芳則

児童文化の新出発 ☆日本児童文化協会成立について☆

  「週報」(情報局編輯)第253号

  昭和16年8月13日 発行

子供のことは、『女子供の世界』と一口に簡単に片づけ勝ちであるが、これは大きな誤りである。今日の子供は十年後には壮丁となり、一家の主婦となつて、皇国の安危を双肩に担ふ国民の中枢になるのである。
 書き出しに当時の子ども観を示している。
子供こそ国家活動の源泉であり、国の宝であるといへる。
 この子供たちの精神と肉体を強く正しく練り上げていくことは、実に国家の盛衰に関する重大な問題である。
 そしてまた、われわれ日本民族の使命が大東亜共栄圏の確立にある以上、子供を強く正しく育て上げて行くことは、聖戦を完遂するための最も基本的な方策であつて、その意味ではむしろ皇国大作戦の一部であるともいへる。
 ここに本音がうかがえる。
 興味深いのは、「我が国の児童文化が低調であつた」原因として、「児童文化財の生産が営利主義のために壟断されてゐたこと」があげられ、「一流業者は児童文化財の生産に熱意をもたず、製作は常に二流以下の業者によつて思ふまゝに任せられて来た。」と認めて、「児童文化の地位は社会的に低く、一流の文化批評家も得難く、未熟低調のままに放置された感がある。」としていることである。
「赤い鳥」をはじめとする芸術運動についての発言もおもしろい。
大正七年に雑誌「赤い鳥」が発刊され、この児童読物の低俗化に対する芸術運動として功績のあつたことは事実であるが、児童を尊重する余り、童心主義に陥つて、児童読物を根本的に改善することは出来なかつた。その後の児童読物は商品主義と童心偏重主義との対立のまま、非常な混乱状態に陥つて昭和十三年に至つた。
と経過が語られる。
 それ以後の経過もたどられる。
「日本児童絵本出版協会」「関西児童絵卸業協会」「青葉会」を設け、また民間側もこれに呼応して、「日本児童漫画家協会」「少年作家画家協会」などを設立したが、長い年月にわたつて営利本位に馴れた業者と、業者の意のまゝに作品を作つてきた作家画家達は、この浄化指導の方針を具体化するだけの力もなく、更に積極的な指導方針の必要が痛感されたのである。
 当時の事情の一面を述べている。
 昭和十四年五月に文部省が始めた図書推薦制度についても、
両親とか教師が図書を選択するのには、大変便利であるが、その対象が既に出版された図書に限られてゐる所に限度がある。
という発言には、以後の方向が示されている。
 「日本児童文化協会創立準備委員会」が設立されたのが、昭和十五年十二月。次いで民間の「権威者十氏」によって、「日本児童文化協会要綱案」が作られた。以後文部省をはじめ関係官庁(警視庁も含まれる)の協議会が七回にわたって開かれた。
 要綱案の修正を民間側も参集して審議の結果、「日本児童文化協会設立要綱案」が決定された。
 「日本児童文化協会」の狙いとして、以下に書かれる。
「童心偏重」の自由主義を清算し、渾身日本精神を以て貫かれた真の日本男児、日本女性を育成することに最高の目的を置いている。
 協会の方針として、
その一は、協会が官庁側の机上計画によつて作られるものではなく、真に児童文化の国家性に眼ざめた民間の識者や関係者の内部から盛り上がる力を組織化したものでありたい
という「ねがい」が破られるのは遠いものではなかった。

 第二は、
童話、玩具、紙芝居以下の各部門は原則として一元的に統合された一本の団体として加盟するといふ点である。
 第三は、
協会は各部門毎の一元団体の単なる寄合世帯ではなく、その指導力と統制力は各部門の内部にまで強力に浸透するものでなくてはならない。
 この文言をその後の経過過程の中でどう読めるか興味深い。
 文章は次の勇ましい言葉で結ばれる。
今や独ソ開戦を転機として、世界は挙げて一大動乱に突入せんとする兆があり、皇国の立場も実に肇国以来の超非常時に直面してゐる。この闘争の世紀に、邦家をよく光栄の彼岸に導くためには、第二国民に負ふところが極めて大きい。その盡忠勇武の精神と高度の科学性と強健な体力とを育成するのは今日の児童文化関係者である。従つて、児童文化関係者の使命は正に重大である。思ひをここに致し、自我功利の思想を捨て、大和協力、一億一心、真に強力な日本児童文化協会結成に邁進されることを希望する。

(大藤幹夫)



児童読物の現在と将来への課題  周郷 博

  「教 室」昭和16年5月1日 発行

  厚生閣

 昭和十三年十月に警保局図書課から出された「児童読物改善ニ関スル指示要綱」は大きな波紋を投げかけた。さまざまな批判があるが、当時どのように読まれたか、教育学者として知られる筆者の思いをたどりたい。
 周郷は、この要綱を「頗る簡潔な表現の中で、現在の児童読物の急所を、適確に衝いてゐる」と評価している。後年、批判の中心になる「編輯上ノ注意事項」についても「児童読物の将来への一種の展望をも含むものとして、味ひ深いものがある」とする。

我が国の児童読物に対する当局の浄化運動は、まことに果敢であつた。別の言葉でいへば、天下り式だつたといふことにもなるだらうか。(略)僅か一年そこそこの間に、つぎつぎに児童読物の出版者、編輯者、作家、画家等の関係者をおそつた旋風は洵に物凄かつた。
 大正期の児童芸術運動の流れにも触れている。
それらは一種の芸術運動とは云へるだらうけれども、その児童観は、もはや痩せ細つて気息奄々たるものだつた。小さく個々人の趣味と芸術には答へてくれても、一つの時代の人々を大きく結合する何等の魅力を持たないものだつたのである。
との見方を示している。
 当時の関係者たちの要綱の受け止め方についても、
功をあせつて、如何にして一刻も早く「指示要綱」に合致した出版をするかといふ、いへば馬鹿々々しい勢力の使ひ方をしてゐたのである。作家や画家の側にも、かういふ傾向のあつたことは否定出来ないと思ふ。かういふ行き方からは、決して健康な児童観が盛上つては来ない。
と批判する。
 童謡に例をとりながら、論は進められる。
最近の童謡とか、絵雑誌や絵本の幼児向きの言葉は、上すべりな国策色で塗りつぶされてゐる。どれもこれも、きまりきつて歯を磨けとか、何でも好き嫌ひを云はずに食べろとか尤もらしい付焼刃の教訓で充満してゐる。国民学校の新しい教科書が好んで児童本位のやわらかい色調を加へて行つてゐるとき、ここでは、恰度これと正反対の方向に押遣られてゐると云つた状態である。(略)それは、寧ろ学校の教師とか父兄がその子供達に対して直接に云ふべきことで、それと同じことを児童読物でも云つてゐるのでは、その独自の存在の意義はないことになる。
 周郷の主張する力点は、
我が国現在の児童読物の混乱は、この児童観の混乱にある
というところにある。
児童観の問題を抑える事によつて、我が国の児童読物はー惹いて我が国の児童文化は、洵に洋々たる未来をもち得るものだといふことを、深く思はしめられる。
 これについて、「大正七、八年から末期にかけて」の児童芸術運動が批判される。
この自由教育の行き方は、今の時代を益するどころか、その弊害が随所に暴露してゐる事実は今や何人も認める所
と認識される。
 一方、この運動は、
兎も角、独特な気慨をもち、また迫力があつた。その児童観は、ともかくも、確乎とした体系をもち、その一つの時代に対して、場合によつては政治や経済をも左右しかねない程の指導力をもつてゐた。(略)現在に於ても、亦さういふ指導力をもつた児童観が、支離滅裂な児童観を中心から支え、この拡大された児童文化の全領域を一貫してゐることが何よりも必要なのである。
という論は、児童観の中身を問題にしないでは非常に危険な論調になる。(周郷は指示要綱に盛られた児童観をどのように理解したのだろうか。)
 つぎの周郷の発言は、その惧れを示している。
 「こ々で、児童観とは何を意味するのか」と自らに問い掛けている。
「子供のために」などゝいふ、スケールの小さい感傷的、有閑的なものから出てくるものではない。(略)もつと切迫した今日の国家生活、社会生活の現実が、厳しく要求しまた自づと形作つてくるものなのである。この場合にも亦、それは今の国家、社会の指導理念となるほどに燃焼し、国民全体の納得できるものでなければならない。
 よりいっそうの危険な思いが読み取れる。

(大藤幹夫)



「文士の所得税しらべ」について

上田信道


 「文士の所得税しらべ」は、雑誌「東京」の第2巻第7号(1925年7月号)に掲載。「忙中閑人」の署名があり、1924(大13)年中の所得に対する課税額を調査したものである。
 「東京」は実業之日本社から出ていた総合誌。初代主筆は松山思水で、該当号の頃は有本芳水が主筆をつとめていたと思われる。
 冒頭に「文士は金に縁のないもの、貧乏のものとされたのは昔のことだママ、今の文士は、原稿料がタンマリ入るので、税務署では打ちやつて置かない。そこで文士の所得税について調らべて見ると左の如し」と、かなりゴシップ的な内容ではある。しかし、当時の文士の収入について知ることのできる数少ない資料として貴重であろう。
 そもそも、わが国で所得税の制度が登場するのは1887(明20)年のことであった。この頃は、土地にかかる地租が国税収入のほとんどを占めている。所得税の納入義務を負う者は、よほどの高額所得者に限られ、全国でわずか12万人にすぎなかった。
 しかし、記事が書かれた大正の末期には、所得税は国税収入の20パーセントに迫るまでになっている。納税義務者は180万人にまで達していた。
 それでも、大部分の庶民にとって、所得税は縁のないものであった。庶民は酒・煙草・砂糖などへの課税によって、間接的に税金を負担していたにすぎない。
 文士も同様で、よほどの売れっ子でない限り所得税を支払っていなかった。支払っていたとしても、今日のように出版社からの支払い段階で源泉徴収される制度もなく、税務調査も厳しくはない。
 現に「文士の所得税しらべ」には、「文壇の大家島崎藤村が、所得税を収めてゐないのは収入が少いためであるか。また谷崎潤一郎、広津和郎、吉田絃二郎、宇野浩二、正宗白鳥、山本有三などは、流行作家で、所得はタンマリありながら、一両年前までは所得税を払つてゐなかつたやうだ」と、皮肉たっぷりである。
 このように、当時の錚々たるメンバーにして、まったく所得税を納税していない。そういうことで通用した時代の所得税しらべであることに留意しておきたい。
 さて、文士といわれる人たちの中では、徳富蘇峰が最も高額の所得税を納税している。「所得税は二千三百二十五円、この所得額は二万五六千円といふ素晴らしさ」であるが、蘇峰の場合は「国民新聞社長としての所得の外貴族院議員の歳費等がある」ので、これはかなり例外的といえる。
 これにつぐ所得を得ている文士は、もともとの財産家である。
 永井荷風は所得税が「二百四十二 ママ円一年の所得額六千円といふ査定だが、この人は、原稿料以外に、お父さんが郵船会社の重役であつた関係から、親ゆづりの財産があるので、文士としては割合に多い所得税を課せられる」という。
 三島章道は「原稿料の収入はゼロに近いけれど、その所得税は二千百七十八円、この所得額二万四五千円とは、驚ろかされる。これはその父が子爵三島弥太郎で、三島弥太郎は、正金や日銀の頭取総裁であり、この株券や、遺産があるから課税されるのだ」とのことである。
 また、文筆以外の定職についている文士が、もともとの財産家につぐ所得をあげているのは当然であろう。
 尾上柴舟は「百三十五円、一年の所得額四千二三百円だが、歌の収入より、女子高等師範学校の教授としてうくる俸給に所得税をかけられてゐる」という。「ヨネノグチの野口米次郎は七十五円、この所得額三千円見当、慶応の教授をやつてゐるので、この俸給に課税されてゐるのだらう」ともいう。
 これまであげてきた例は、文筆以外に収入のある文士たちであった。それでは、文筆専業の文士の所得はいかほどであろうか。

▲文壇の大御所として、とぶ鳥も落す勢の菊池寛は、所得税は三百六円だ。この税額で所得税(「所得額」の誤りか―引用者)を算出すると、一年の所得七千円以上八千円以下になる。だが事実は七千円や八千円でないこともちろんで、税務署が知らないのだ。今年は恐らくもつと課税されるだらう。
▲人形のやうな艶子夫人を得て、ブル生活をやつてゐる久米正雄の所得税は二百三十六 ママ 円所得額を算出すると六千円になる。一年六千円では月五百円だが、事実は二倍三倍以上。
 長老に属する大物文士でさえ、坪内逍遙は「百六十七円で、所得額を算出すると、四千五百円」である。
 上司小剣は「文壇の蓄財家として知られ、預金が何万円あるとかいふ」といわれながらも、「その所得税が百二十四円、一年の所得額は四千円見当だ」というにすぎない。
 彼らに比べて、この時代の新進または中堅と目されるの文士たちの所得は、意外なほど少ない。
 芥川龍之介にして「所得税は七十三円、七十三円では一ケ年の所得三千円」にすぎない。「ここにも税務署のお目こぼしが見える」とはいえ、久米正雄クラスの半額以下である。岡本綺堂は「所得税百二十八円、一年の所得額四千円見当」であり、小山内薫は「百二十九円で、前者の綺堂とほぼ同額」と、芥川につぐ。室生犀星は「五十二円、この所得額二千五百円」で、「最近メキメキとうり出した加藤武雄は、僅かに四十五円、この所得二千五百円だ」という。
 これに比べると、児童文学関係の文士の所得はなぜか、かなり多めである。高所得というより、所得の捕捉率が高いというべきかもしれない。
 巌谷小波は「所得税が二百七十二円 所得額六千五百円見当」にものぼる。「お伽噺や講演で収入がたんまりあると見られたからであらう」とはいうものの、文士としては最高クラスの所得に相当する。
 著者の「忙中閑人」もこれにはかなり不満があるようで、「自然主義勃興時代にその第一線に立ち、今は博文館編輯局長をやつてゐる長谷川天渓の所得税は百十円、この所得額は三千六七百円はあまりに少なすぎる」と、嘆いているほどである。「忙中閑人」の正体は不明であるが、「東京」の版元である実業之日本社がこの時代の少年少女むけの出版物では大手のひとつであったことから考えると、あるいはそうした分野にかかわりの深い人物なのかもしれない。
 また、「漱石の門から出て、今は童話作家になり、「赤い鳥」を経営してゐる鈴木三重吉は五十一円、この所得額二千五百円見当」だという。
 「赤い鳥」の創刊は1918(大7)年で、この記事が書かれた大正の末期にはすでに創刊時ほどの勢いはない。同誌は昭和期に入って経営難から一時休刊し、やがて廃刊に追い込まれていく。
 それでも、三重吉の個人所得が二千五百円あったという事実から、この時期の赤い鳥社はそれなりにゆとりのある経営状態であったことがうかがえて興味ぶかい。



内山憲尚『仏教童話とその活用』

  興教書院

  昭和16年1月1日発行

 四六判276頁。憲尚は、「序」で、仏教童話の概念規程の難しさを指摘し、多様な理解の結果、見当違いの考え方も生じていると現状を述べ、明確な概念、深い理解のために「仏教童話の入門書」として本書を著したと動機を述べている。
 目次は、「総論篇」「各論篇」「実際篇」の三部から構成。それぞれに章が立てられているので列記する。

 「総論篇」

一章 宗教と童話」/二章 宗教々育と童話/三章 仏教と日本童話/四章 仏教童話の意義と範囲
 「各論篇」
一章 印度童話/二章 仏典中の童話/三章 ヂヤータカと印度文学/四章 釈尊伝/五章 仏弟子伝と宗祖伝及高宗祖/六章 縁起譚/七章 仏教伝説及信仰談/八章 仏教味を持つ童話
 「実際篇」
一章 仏教童話の選び方/二章 仏教童話の作り方/三章 仏教童話の話し方/四章 日曜学校に於ける仏教童話の活用/五章 幼稚園託児所に於ける仏教童話の活用/六章 国民学校に於ける仏教童話の活用/七章 布教に於ける仏教童話の活用
 まず「総論篇」からいくつかピックアップしてみたい。
 二章一節の「宗教教育上に於ける童話の地位」では、宗教教育は、知識ではなく、「児童の心の琴線に触れ、彼等の魂を動かすもの」であるとする。そのために最適なのは童話で、「元来童話の持つ特殊性の内神秘主義、詩的正義等が、多くの宗教性」を持っているという。穿った見方をすれば、この発言の背後には、仏教日曜学校成立の事情がからんでいるかもしれない。憲尚は、仏教日曜学校では、明治三〇年頃には教案もなかったと振り返り、そういう状況に口演童話を取入れたことが成功につながり、ついには「日曜学校と云ふものは童話をのみ聞かせるとところであると云ふ様な考へ」が生じたという。とすれば、童話を否定すれば、それまでの日曜学校活動は何だったのかということになりかねず、憲尚のように、童話に仏教的色彩を見出さざるを得ないという面を否定できないからである。しかし、こういう見方は、皮肉にすぎるだろう。童話に注目したのは、そこに仏教的雰囲気を感じ取ったからと、そのままに受けとりたい。憲尚は続けて、口演童話に力をかりて発展してきたが、今日では、行き過ぎが生じ、童話中毒になりかけていると警鐘をならす。
 三章「仏教と日本童話」は、仏教説話集を歴史的にかいつまんで解説したもの。「花咲爺・舌切雀」をはじめよく知られた昔話が、慈悲、報恩、殺生禁制、因果応報、霊魂不滅、輪廻転生などの仏教的観点から説明される。たとえば、「花咲爺」では、犬の霊魂が松に残り、さらに灰に残って報恩をすると同時に、欲深爺には、悪果を示すという。しかし、社会常識に近い道徳観、たとえば「思いやり」(慈悲)のようなものを、ことさらに「仏教的」なものに結合させる強引さが感じられる。このような「仏教的要素」を含むものを仏教童話というとすれば、説話の多くは、仏教童話の範疇にはいることになる。
 四章「仏教童話の意義と範囲」では、仏教童話という語について、十数年前(昭和初年ごろになる)「宗教童話」と言う語があったが、教義を異にする仏教と基督教とは、分かれなければならないと述べている。昭和二年から四年にかけて「宗教童話」という雑誌が刊行され、憲尚はその編集にたずさわっていた。しかし、この雑誌は仏教もキリスト教もひとつの誌面を共有していたためか失敗に終わったらしい。おそらくそういう苦い経験あっての発言だろう。
 仏教童話は、童話の中の「仏教味を帯びた童話」であって、仏教童話という「独立した本質的なもの」はない、というのが憲尚のとらえかたである。さらに、仏教童話は教義を協調した狭義なものばかりではなく、広義なものを含むといい、その具体的内容を四点にまとめている。仏典中に取材したもの、釈尊や宗祖などの仏教的人物、縁起譚などの仏教的説話、さらに仏教味を有するもの、である。最初の三点はいいとしても、最後は、いかにも漠然としているが、広がりをもったものとして考えようとするのである。例として、「蜘蛛の糸」や吉田絃二郎「悪太郎烏の死」があがっている。「蜘蛛の糸」はともかく、「悪太郎烏の死」を「立派な仏教童話」と言われると違和感が残る。周知と思うが、念のためにいうと、悪太郎烏と呼ばれている烏が鳴くと、死人がでると思われていたのに、噂されていた病人は、主人公の努力で元気になり、死んだのは、烏自身であったという話である。憲尚は、これを仏教味を有する作品とする。
 憲尚による、仏教童話の定義は、「(1)仏教的信仰を有するひとが(2)仏教的影響を目的として(3)仏教的(広義の仏教童話)に書き又は話すものを云ふ」、である。仏教的信仰については、付言がある。平素は仏教的でなくても創作しているときに信仰心が燃えているのは、仏教童話になり得るが、信仰心がなければ仏教童話にはならない、という。
 「各論篇」では、仏典やジャータカ、釈尊伝、宗祖伝、縁起譚など「総論篇」四章で広義の仏教童話とした項目を解説する。「仏教味を持つ童話」の例にあげられているのは、前述した以外では、小川未明「赤い蝋燭と人魚」「月夜と眼鏡」「石をのせた車」、宇野浩二「揺籃の唄の思ひ出」、秋田雨雀「先生のお墓」などである。「仏教味」が感得できるだろうか。
 「実際篇」では、仏教童話の選定条件が示される。列記すると、「国民的」「仏教的」「指導性」「生活感」「芸術的」。避けなければならないものとして、「過去、未来思想を露骨に強調する話」「迷信に導く様な話」「悲哀なる話」「恐怖心を起させる話」「残忍な話」「刺激の強い話」「真似易き悪戯の話」「不具者の話」「継子苛めの話」「仏教や僧侶を愚弄するが如き話」。このうち、「悲哀なる話」から「継子苛めの話」は、当代の幼児教育の参考書類にも、好ましくない「お話」の諸要素として上げられているもので、最も基本的な禁止項目である。仏教に直接かかわっての禁止項目は多くない。
 第二章第一節に童話の「改作法」がある。これは、童話を口演童話とするための注意点を述べたもの。原作を尊重しつつも、できるだけ仏教的にすると内容に踏み込んでの改作も説く。あと、技術的な方法について記述が続くが、口演童話化一般の話なので、省略。
 最後に「国民学校に於ける仏教童話」についての発言を引用しておく。宗教教育はこれまで禁止されてきたが、「仏教が信念を作り腹を作ると云ふことは支那事変に於ても證明されるところ」であり、教室では、「日本人的な仏教信念を養ふと云ふ意味」において与えられるべきであるという。仏教童話の位置付けも時代の流れの中にあることを実感できる発言である。

(藤本芳則)