インターネット版

児童文学資料研究
No.95

発行日 2004年2月15日


目  次


「教室」収録の児童文学論(2)大藤幹夫
二瓶一次『童話の研究』藤本芳則
唱歌「夏」と「夏は来ぬ」考(2)上田信道

「教室」収録の児童文学論(2)

  昭和16年3月1日発行
  厚生閣刊

「童話と地方語」 酒井朝彦

昭和四年に友人と雑誌『童話文学』を起したので、わたしは「月夜をゆく川水」「天に昇つた蛍」「見えない絲」「こほろぎと星」のやうな象徴的作品をつぎつぎに発表してゆきました。
とあるが、「童話文学」の創刊は昭和三年七月と確認されている。
 この記述によると、たとえば、出世作とされる「天に昇った蛍」も同誌に発表されたように見られるが、自身書くように、この作品は「小川未明先生のご紹介で」「東京朝日新聞」に発表されたとされる。(『新選日本児童文学2 昭和編』小峰書店、昭34)。関英雄によれば「一九二四(註・大正十三)年四月」「東京朝日新聞」に発表された。(未確認)
 続いての記述に、
わたしの童話作風の上に大きな転換期が来て、浪漫的から現実的となり、空想的から個性的となつて来たのです。そこでわたしはある個性的な人物を主として取扱かひ、人生の苦悩の中に光明を、成人の生活の中に童心を認め、これを現実的に描くと共に、新らしい浪漫の世界を象徴しようと思うたのでした。
「春のラッパ」「詩人とふるさと」「ある音楽家の花」「門と詩人」といふやうな作品は、この時代のわたしの心境を象徴するものといつてもよろしいのです。そして特にこの頃から目立つて現はれて来たのは、児童文学の中に郷土性を生かし、普遍的描写から個性的色彩と内容とを表現することに、わたしの主観が傾むいて来たことでありました。従つてわたしは更に深入りをして、郷土色を一層鮮明に、かつ強調しようといふ風になつて来た結果、自分のふるさとに取材した作品を多く創作するやうになりました。
 酒井作品を研究するに見逃せない証言ではあるが、ここでも「ある音楽家の花」とあるのは、記録(『新選日本児童文学』前出)によれば「若い音楽家の花」である。私自身体験したことであるが、作家の記憶を資料として扱う際に心しなければならない事例となる。
 主題になる「地方語」に触れた記述が続く。
山国の自然と、その環境の中にある児童の生活を出来る限り生々と写実し、そしてその作品の芸術的、文学的効果を多く出したいといふ念願から、児童のつかふ言葉をも郷土的に扱かひ、かれらの実際使用してゐる生活語をもつて現はすこととしました。つまりこの言葉の中には、かなり多くの方言が用ひられるわけです。このころから、わたしの童話に地方語がどんどんはいつて来出したのであります。それは昭和十年から十二年頃のことで、雑誌『児童文学』を友人と経営してゐた時代です。
 現在でも、日本児童文学の世界では、地域語(方言)の自立性は確立していると言いがたい。
 次は、時代の証言になる。
時局下、日本精神の徹底と共に、国語の純化問題は極めて緊要なこととなつて来てゐます。三千年の光輝ある国体の精華をますます発揚する上に、祖先の生み、用ひた大和言葉を正しく今日に生かし、その美しい言葉の中にこもる貴とい精神を、わたくしたちの愛国心に培かつてゆくやうにしなければなりません。さういふ意味からわたしは、わが国語の純化といふことを、心に強く期待してゐるものであります。

次代の国家を担ふべき少国民の心に、真に日本の心を宿さしめ、祖国を愛する心を強く有たしたいといふことを、童話作家の大きな使命と考へてゐるわたしはその精神を自分の創作にいかに生かすかといふことが一番大切な問題であります。
 日本語の純化と方言という矛盾をどう見るか。酒井は、
作品の内容と精神とに真実性を添へ、児童の心により純真な情緒と感激とを与へたいと思ふところから、方言の中に生かされてゐる美しい情愛と、精神と、リズムと、まごころとを、方言によつて生き生きと表出したいと思ふのです。
と書いているが、説得力に欠ける文章である。

「子供のための童謡と詩」 与田凖一

 まず「童謡の現状」が語られる。
レコードやラジオの童謡は、子供の歌謡といつた範囲にひろげられて、そのなかに、小学唱歌も、従来からの童謡もふくめて取扱はれてゐ、それを総称的に童謡とされてゐる。
 この「子供の歌謡」という呼称について
感傷感覚本位、童心童語本位な過去の童謡の行きづまりを打開する、未来性とひろがりのある領域を予想させるものがある。
と肯定的な意見に出会う。「童心童語」は北原白秋の好んで用いた言葉である。その白秋の弟子筋にあたる与田の見解と読めばおもしろい。
 しかし、現実の「子供の歌謡」については厳しい姿勢を見せる。
うたそのものの平板なこと、作歌態度の稀薄さといつた点で、明治の小学唱歌におとるかもしれない。
 その現状打開の道を次のように言う。
うたの出来の巧拙以前に、作歌根拠のたしかさ、たくましさといふことから、出直す必要があるのではないかと思ふ。作者が、うたのテーマを、どこまで自分のテーマにしてゐるかといふこと、まへに言つた新唱歌として歌謡の指導理念の中に作者の本音が言葉呼吸づかひとなつてゐるかどうかといふこと、テーマが語感の中に表現的にうたはれてゐるかどうかといふこと。…
 次の言辞も厳しい。
 国語の純化もなにもあつたものではない、ひどくしらじらしい概念的な国策型童謡が、普遍化しやすい旋律(これが問題)に乗つて、はやつてゐる例は、あげようと思へばいくらでもある。

今日の多くの童謡作曲家は、日本語の語感については全くの「鈍」であり、浮身をやつしてゐる旋律の中には、多かれ少かれ、レコードにあはせて振袖姿が踊るたぐひの古い児童観しか住んでゐない、又は何者も住んでゐない職人旋律しか聞かれない。内律的な強さと明るい未来性を捉えた作曲なり、新しい児童観を持つた作曲者は、私の知るかぎり殆ど見当らないといつていい。だから、うたの格律、階調、言葉のニュアンスといつたものを、子供のための単純率直な曲として活かしてくれさうな作曲家は、現在の童謡作曲者以外に期待した方が、可能ではないかといふ気さへする。
 当時を知る人には皮肉な発言とも受け止められよう。
とにかく、子供のための童謡―子供の歌謡では、まづ、作曲家の側に、新しい児童観なり世界観を確立させることと作歌者側の自主的な作歌動機を尊重するといふこと。言ひ添へたいことは、自主的な作歌動機を尊重するといつても、嘗ての芸術童謡(さういふをかしな称呼もあつた)が作者の狭い文学的昂奮を作歌動機とした、さうした旧態に引き戻さうと去ふのではない。題目主義の歌謡が、文学的擬態でうたはれたら見られたものではなからう。
 大正時代の「赤い鳥」運動を知る著者にして、この懐疑的発言は注目すべき時代発言になる。

(大藤幹夫)



『童話の研究』

  二瓶一次著
大正5年12月5日
戸取書店

 扉、奥付は、表題のとおりであるが、目次には「理論と実際童話の研究」と角書きがある。角書きが示すように、理論と口演の技術論とで構成されている。
 巌谷小波の序文があり、当代の児童文学のおかれた状況が窺える。曰く、「今や五里ママ夢中の域は脱しても、当時尚低気圧の襲来を免れ得ぬ我が童話号の航路に当つて、この新燈台の出来た事を賀ぶ」。
 さて、理論編の主な項目は次の通り。「童話及童話発達の順序」「童話研究の順序」「童話の選択及選択標準」「童話の教育的勢力」「童話と児童心理との交渉」「童話の使命」「西洋と日本との比較」「代表的童話の研究」。理論編に続いて、「話し方の研究」で口演の技術を述べ、「説話の実際」として、口演台本とともに上演上の留意事項を示して手引きとする。
 従来口演についての理論書の中には、児童文学そのものに言及したものが少なくない。しかし、多くは「言及」程度であって、二瓶のように踏み込んだものはあまりみない。
 現代の児童文学論は、「語り」を論じることはほとんどないが、二瓶は、語りと子どもの文学を一体ととらえている。二瓶が教育者であり、まえがきにいうように、まず小学校教員を読者に想定していたからだろうか、それとも当代の〈子どもの文学〉の認識はこうしたものだったのか。
 以下、理論編を中心に述べる。
 まず、「童話」と「お伽噺」との相違を、蘆谷蘆村、岸辺福雄、沼田笠峰その他を引いて検討する。相違が問題として意識されているのは、明治から大正へと時代が進むに従い、児童文学への関心が深まってきた証左であろう。しかし、二瓶自身は、「童話即ちお伽噺、自分はかう視てゐる。児童へのおはなし即ち童話、とかう視て差支が無からうと思ふ。」と、単純である。ことばが、どのように定義されるかという問題は、「左程に重要な関係を実際の取扱者に及ぼすものではない」と考えるからである。二瓶は基本的に、子どもにお話をする教育者の立場から発言している。
 「童話研究の順序」では、童話研究に文学、児童心理学、教育の三分野があり、実際の研究には、これらが相互に関係していると述べる。このうち、童話は児童心理を離れては存在しないので、これを保留して考えれば、「文学的研究」「教育的研究」となる。この二派は、反目しあっているが、相互理解が必要だと説く。童話にも文学派と教育派があり、受容形態からいえば、読ませる童話と聞く童話であり、小説でいえば、芸術的と通俗的になる。具体的な童話でいえば、アンデルセンに対してグリムになる、という。
 二瓶は、童話の相として、読む童話と聞く童話という二つが姿を見せてくると確信する。二瓶にそう主張させるほどに、口演童話が勢力をもっていたことになる。その上で、童話の研究者のなすべき三つの仕事を掲げる。「童話の選択」「童話の創作及改作」「童話の話方」である。童話の改作に積極的なのは、非教育的な話も、一部を改めることにより、「良好なる教育的結果」をもたらすことが、少なくないからであるという。しかしながら、後日譚などは、蛇足として認めていない。教育的立場に力点が置かれるのは、著者が教育者だからであろう。
 全体が、教育色の強い論調であるにもかかわらず、二瓶は、教育と芸術のどちらに力点をおくのもよしとしない。「童話が一個完全の芸術品であるといふことは否み得ないと同時に、一個完全なる教育の方便物であるといふことにも肯定を与へ」なければならないという立場である。「方便物」という言葉が適切ではないが、広い意味の教育性(これは二瓶も繰り返しのべている)を含むというのであれば間違いではない。しかし、芸術作品が、なんらかの広い意味の「教育性」をもつと考えるなら、このようなことは、改めて指摘するまでもないことである。それを敢えてしているのは、童話が「芸術品」と見なされなかった時代だったからであろう。
 童話が芸術と認められると、「児童といふものから離脱した一つの童話が出来るらしく予想される」と、述べているのが目をひく。二瓶が危惧した童話とは、「発表形式を童話に借りた」童話であり、これらは児童のものではないと断言する。いわゆる童心主義による大人のための童話への警告とみることができよう。
 大人のための童話という点では、空想の必要を論じたところでも「現今しきりと児童の前に提供される少年少女物語類」の空想は、少年少女自身の空想ではないものが多いと指摘する。それは、子どもの空想に似せた作家の空想であり、「現今表れて来る童話の最大欠陥」だという。大人のお伽噺であり、大人でなければ分からないし、共感できない「極めてセンチメンタルな空想」が童話に描かれると批判する。
 自らの体験をもとに、教材批判をする部分が面白い。国定教科書をみると、九、十歳までには桃太郎のような「純童話」、十二、三歳には「寓話仮話」、十三歳以上には「歴史伝記物語」が割り当てられているが、経験上、七、八歳から十一、二歳の子どもの興味をひく童話は、それ以上の年齢にも十分面白く、教育上の効果にも違いはほとんどないという。童話の力の大きさを身をもって知ったことは、本書執筆の動機にもなっていよう。教育的要素についても、露骨な教訓談は、大人が考えるほどの効果はないとすることばもある。
 童話の空想性については、科学万能論にかぶれた論者の、空想が科学的研究心を鈍らせると批判するのはあたらないという。その根拠に固体発生は系統発生を繰り返すという当時の子どもの心理発達論をもちだす。子どもには空想は空想でなく、現実であるという。
 「童話の使命」の節では、「童話の根本の使命は、思想及び感情の教育にあることは論をまたない」が主旨。
 西洋と日本との比較は、さほど目新しいところはないので省略。代表的童話、いわゆる五大昔話についての考察も略す。ただ、桃太郎は、「完璧の童話」と高く評価されていることを付言する。西洋の童話としては、グリム、イソップ、アンデルセンが取り上げられる。大正初期の外国の児童文学への認識度がわかる。

(藤本芳則)



唱歌「夏」と「夏は来ぬ」考(2)

上田信道


(承前)
 金田一春彦説にしたがうと、「夏は来ぬ」の初出は『新編教育唱歌集(五)』で、その根拠はどうやら堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(1958 岩波文庫)にあるようだ。
 岩波文庫によると、この唱歌集は教育音楽講習会編で、「全八編。第一集は明治二十九年(一八九六年)一月に出版、以下第八集まで順次刊行されて明治三十九年(一九〇六年)二月二十日文部省検定済となっている。編集者の名は出ていないが小山作之助を中心とすると察せられる。全体で二百四十七曲目収録され、その中には前に他の唱歌集に出ていたものがたくさん再録されている」という。第五集は1896(明29)年五月の刊行だというから、「夏」より「夏は来ぬ」の方が五年も早い発表ということになる。たしかに金田一のいうように「不審」なことである。
 ところが、池田小百合『童謡と唱歌 春夏のうた』(歌唱の歴史1 2002 夢工房、以下単に『童謡と唱歌』と記す)によると、『新編教育唱歌集』の第一集は発行年こそ岩波文庫版が正しいが、発行元は三木書店である。また、1905(明38)年8月17日に全八集の修正五版が開成館から再発行されていて、第五集が刊行されるのは、この版になってからのことであった。これより前の版に「夏は来ぬ」は掲載されていない。
 したがって、岩波文庫版の説は誤謬で、従来は再録本の扱いを受けていた『新撰国民唱歌(二)』(1900 三木楽器店)が、初出本だということになる。この唱歌集は「夏」が掲載された唱歌集と同一のタイトルであるので、以後は「夏」掲載の唱歌集を《開成館版》、「夏は来ぬ」が掲載された唱歌集を《三木楽器店版》と称して区別する。
 なお、『童謡と唱歌』によると、《三木楽器店版》は某国立大学付属図書館蔵であったが、大学図書館に問い合わせてみたところ、行方不明につき閲覧不能との回答があった。国の資料管理の不手際によって貴重な資料が散逸していくのは、まことに憂慮すべき事態である。
 ただ、「夏は来ぬ」の歌詞と譜面については『童謡と唱歌』に複製版で収録されているので、この唄に限定して資料調査することは可能である。それでも、唱歌集の全容をうかがい知ることはできない。ただ、さいわいにも伝手をたどって《三木楽器店版》の写真を入手することができたので、ここで内容を紹介しておく。
 《三木楽器店版》の表紙には「新撰国民唱歌 二集」「東京音楽学校教授 小山作之助編」「大阪 三木楽器店印行」とある。奥付には「明治三十三年六月十一日印刷/明治三十三年六月十四日発行/定価金八銭」、著作者として「東京市本郷区元町二丁目六十六番地 小山作之助」、発行者として「大阪市東区北久宝寺町四丁目六番地 三木佐助」、発売所として「東京市京橋区竹川町十三番地 共益商社楽器店」とある。
 また、「緒言」によれば、「本書ハ普通教育ニ於ケル唱歌科ニ」云々とあって、小学校用教科書として編纂された唱歌集であることがわかる。
 次に、「目次」を紹介する。

吉野山懐古作歌一、落合直文
  二、白石千別
 作曲山田源一郎
夏は来ぬ作歌佐ママ々木信綱
 作曲本元子
作歌高橋穣
 作曲目賀田萬世吉
汽船作歌大和田建樹
 作曲田村虎蔵
鏡が浦の驟雨作歌渡邊文雄
 作曲編者
暑さは日々に作歌・作曲楠美恩三郎
夏の休み作歌・作曲楠美恩三郎
 ところで、堀内敬三が「音楽の友」の1942(昭17)年9月号(2巻9号)に「楽友近事」と題する一文の中で、「夏は来ぬ」の原詞について、ひじょうに興味ぶかい指摘をしている。
小山氏の「夏は来ぬ」は小山氏自身が作詞作曲した「金魚」と云ふ俗歌の曲に佐ママ々木信綱の新作歌詞を配したものである。(中略)唱歌曲に於いては歌詞と曲が不可分ではないのだ。丁度「佐渡おけさ」や「伊那ぶし」や「草津ぶし」に色々の歌詞が同じ曲で歌はれる様に、旋律自身に独立性の有るものは歌詞が固定しなくてもよいのだ。
 堀内のいう「金魚」と「夏」との関係はわからない。
 しかし、《開成館版》も小学校でよく唱歌の教科書に使用されていた。したがって、ここに掲載された「夏」も、当時の小学生たちの間ではかなりひろく歌われていたようだ。例えば、墨田区立第一寺島小学校の90周年記念誌(1959年刊行)をひもとくと、卒業生の対談の中に「夏」の唄のことが登場する。司会者が当時の唄を歌って欲しいと依頼したとき、1890(明23)年入学生と1892(明25)年入学の卒業生が、声を揃えて「夏」の唄を歌っている。
 こうしてみると、小山は「夏」の歌詞の内容からタイトルを《金魚》だと錯誤して先の一文を書いたのかもしれない。(未完)