インターネット版

児童文学資料研究
No.96

発行日 2004年5月15日


目  次


「教室」収録の児童文学論(3)大藤幹夫
内山憲堂『新童話術綱要』藤本芳則
唱歌「夏」と「夏は来ぬ」考(3)上田信道

「教室」収録の児童文学論(3)

  昭和16年3月1日発行
  厚生閣刊

「現代の童話と童話作家」 滑川道夫


 ここでは明治期は「お伽噺」、大正期は「創作童話」、昭和期は「生活童話」の時代として捉えられる。
 昭和期を「生活童話」として括る拠り所を「今日の童話作家が好むと好まざるとにかゝはらず児童のもつ現実生活を念頭におかざるを得なくなってゐるところに、現代を生活童話時代として一応括弧に入れる拠り所がある」とする。だが、なぜ「現実生活を念頭におかざるを得なくなつてゐる」のかの事情については説明されない。
 「生活童話」の様相について「現実の生活性を強く把へようとして、生活の袋小路に自らを追ひ込んでゐるもの、生活の迷路にあがいてゐるもの」「生活の汎さをもとめて、かつての童心主義時代の夢を再び見ようとするもの」「たゞ漠然と生活童話といつた雰囲気の中で右往左往してゐるもの」と多様であることを認めている。この状況を「陣痛期的な様相」と見る。
 「大正時代の「赤い鳥」を中心とした創作童話時代を強く支配してゐた童心主義の児童観は、社会的存在としての発展的な生活者としての児童観にまで移行されて来たところに、陣痛期的錯雑な動きを一貫する生活童話の特性」として時代の流れが示されている。
 「かつては固定的に謳歌され、作家の(大人の)いはゞ郷愁のすみか(傍線は原文傍点、以下同様)でもあつた子供の世界が、社会生活のさ中に在つて、しかも将来大人へ、社会人へ国民へ、発展すべき、また現に発展しつゝある子供の世界として作品に、具象化されなければならないといふ考へ方が、生活童話のもつとも求心的な命題」となると、常識的に捉えていた「子どもの生活スケッチ=生活童話」という概念が少し揺らぐ。
 そこに「大人の世界に足場をおいて子供の世界を楽しく眺めながら童心を追求するといつた生ぬるい作品行動が許るされない」と方向性が指示される。「子供の現実生活の中に作家がとび込んで、子供の側に立つて書く」ことが求められる。それが「子供の側に立つてその生活を建設的に形象化する」「生活童話」になる。
 「事変後の情勢は、生活童話を国民的思考感動育成への方向を明確に与へつゝある。」「「生活童話」は現に「国民生活童話」への急速な展開が行はれつゝある。」ここに「少国民文学」に移行されようする時代の証言がある。 
 「現代の童話作家」として小川未明、浜田広介、坪田譲治の三氏が取り上げられる。
 まず、小川未明である。
 「「われわれ日本人は、この時局にあたつて…」と卓を叩かんばかりに愛国的熱情を吐露して小国民文化建設を叫んでいる氏の姿は、実に国民生活童話建設への先駆者といつた感銘を与へる。」「明治の小波氏に対照すべき童話の先覚者」と賞賛される。
 未明童話の「暗さ」についても言及されている。
 その暗さは初期においては、アイルランド童話を想はせる神秘的幻想的な雰囲気の中に流れ(金の輪・青いランプ・月夜と眼鏡)次には社会的正義観・人道主義な思想の時代的なうねりとして表現され、(時計のない村・頭を下げなかつた少年・馬車と子供達)時には対照的な明るさを追求する理想主義的な開花として作品化されてゐる。それはインウツな暗澹ではなく湧き上るやうな力強さとして未明童話をつねに貫流する特性である。氏の故郷―雪国の暗さ、日本海的な暗さから来るものとして理解するには余りにも深い強甚さがある。
 あくまで未明童話の特性として指示され、現今の「さよなら未明」の中で指摘されるマイナス要因ではない。
 しかし、「愛国的熱情のほとばしる作品」と評価される「夜の進軍ラッパ」や「赤土へ来る子供達」については、「その熱情のあまり、与へようとするものが露骨で附加的で作品として充分燃焼し、結晶してゐない憾みがある。」「作品の内実からは逆に生硬さが感じられるのである。どこかに未明童話の本領を充分に発揮させない障害物があるやうである。この排除こそ、氏の国民童話建設の課題であらう。」とするのだが、肝心の「障害物」には触れられていない。
 次は浜田広介になる。
 「浜田広介氏は生一本の童話作家としてひたむきに精進して来た最初の人である」。―ここには童話処女作と言われる「黄金の稲束」以前「万朝報」などに発表された小説が無視されている。―「恵まれた素質と東北人特有の粘り強い生活意欲が苦難の道を打開し得たものであらうか。」
 「ひろすけ童話」の特質として「未明童話に見られるやうな積極的な熱情がないが、深山のやうな力を湛えてゐる。美しい童話である。」よくわからない言辞である。
 「ひろすけ童話」の〔寂しさ〕について、「その寂しさは、人生の哀感をそゝるやうなものでも、まして平俗な感傷でもなく、充分楽しく美しく明るい性格をもつてゐるものである。氏の得意とする動物童話にもつともよくこの特性が伺われる。」「作品の底を流れる寂しさは奥羽山脈の山襞の紫のやうに、生活の陰影のやうにおのづからに滲み出してゐるのかも知れない。」
 「氏と面接してみると、かうした作品を通して感受したロマネスクとは凡そ対照的なたくましさを肉体的に押しつけられるのに私は驚いた」とは、同じ経験を持つ者として同感できる。
 「その自信の強さは、時に自作自選の書名に「名作選」と謳ふ(後書に充分弁解されてゐる)結果を導いているのかも知れないと思つた。」は、先の広介氏の性格からみて首肯できる。
 『子どもと文学』で批判された、否定形を重ねる手法についても「一つの心理的手法」と認めながら、類型化する点には「もっと多様な心理的手法が学的発達の上で考へられていい」と苦言を呈している。「心理的手法とリズミカルな表現」を「ひろすけ童話」の特性とし、「後進の童話作家は一度はかならず勉強すべき教材でもあるのであるが、定型的なリズムによる表現構成は、内省の資料となり得るのではなからうか。」とある。
 最後は、坪田譲治である。
「「お化けの世界」以後文壇的地位を確保してからは「子供ものの作家」と呼ばれるやうになつて、一般には「童話作家」の範疇外の人のやうに思はれてゐる。」という時代評価が示されている。
 坪田氏の童話は「赤い鳥」時代にうちこんだ童心主義の文学であるといへる。社会的存在者としての子供の生活発展を描くことがなく、あくまで童心の純情を求め、その心理的な生活を描いていく。さまざまな生活事象の変化はあつても生活の発展が遂に予約されない。大人の世界にまた現実の世界には求め得られない子供らしき空想・想像の微妙な心理的世界を行動に会話に巧みに結合させる。しかも純情さを人間的真実としてうなづかせてゐる。これは他の作家の遠く及び難い点であり坪田独自のものである。
 ほぼ同感できる坪田譲治作品観ではあるが、一点「社会的存在者としての子供の生活発展を描くことがなく」と言う点に若干の異議申し立てをしたい。坪田作品の常連、善太と三平は、一見おとなの庇護の内(「風の中の子供」)にあるように見られるが、おとなたちの蒙る社会的事象(経済的破綻など)とは無縁ではない。明らかに大正期のおとなの郷愁に彩られた「童心主義童話」とは一線を画すものである。
「子供の四季」は善太三平ものに一つの転機を与へた注目すべき作品であつた。それは童心主義・心理主義的行き方に社会的性格を取り入れようとする努力が顕著にでてゐるからである。しかしそれは成功したとは思へない。社会的な生活の中での子供の生活が描かれずに、結局、心理的な生活の中で社会的な動きを覗くやうな弱さを招来してゐると思ふ。坪田氏の本領はやはり心理性を人間真実として追求するところにあるやうに思へる。
 ここでは「子供の四季」以前には社会的性格を与えられた作品が見当たらないような書きぶりであるが、果たしてそうだろうか。『お化けの世界』とほぼ同時期に、坪田の第一童話集『魔法』が刊行されている。菅忠道は、その著『日本の児童文学』(昭和31・大月書店)で、『魔法』を「子どもらしさをえがいていたということでは、童心主義の系列に立つともみられるが、それを大正年代の童心文学と区別しているのは対象のリアルなとらえかたにある。」と認めている。「子どもらしさを描く=童心主義」は舌足らずではあるが、明らかに時代と社会は、子ども」を求めていたのである。

(大藤幹夫)



『新童話術綱要』

内山憲堂著
昭和7年2月5日
文化書房

 本書は、昭和5年4月1日刊行の『童話術綱要』(日本童話協会出版部)の増補改訂版で、四六判220頁。元版が品切れになったので、「言ひ足りないことを随分付け加へました、そして、作法と、その例話を新たに追加」したもの。
 「童話術」という語は聞き慣れないが、「「童話術」と云ふ言葉は昨今用ひられるやうになつたのであるが、「お話の仕方」「童話講演法」と云つた言葉も用ひられてゐる」(1〜2頁)と説明がある。
 元版の出た昭和5年以前に〈童話術〉という語を書名に使用した例としては、久留島武彦の『童話術講話』(日本童話協会出版部、昭和3年10月)があげられる。憲堂自身も、すでに昭和2年3月の「童話研究」に「童話術とは何ぞや」と題した文章を掲載しているし、大正10年には、坪内逍遥が「文化力としての童話術」(「女性日本人」)と題した一文を発表しているらしい(未見)。語り方を軸とした口演童話をめぐる諸技術が〈童話術〉という語に定着していった詳しい経緯はわからないが、雄弁術などの語からの連想されたものであろうか。何にしても口演童話の広がりと共に誕生した言葉であるが、たんに技法だけではなくやや神秘めいた語感をもつ〈術〉を使用したあたりに、専門家としてのかすかな自負が感じられる。
 念のために憲堂自身による定義を引用すると、「童話術とは童話を如何によくすべての聴衆に聞かせ得るかと云ふことの方法を研究するものである」(4頁)。
 内容は、「童話の道に入つた方にとつて「手頃な本」」と憲堂が述べるように、手引書であって踏み込んだものではない。
 目次を書き写してみる。


第一章 童話術の意義と使命/第二章 童話術の基礎/第三章 童話術の要素/第四章 童話の組立方/第五章 童話の言語/第六章 童話の音声/第七章 童話の態度/第八章 童話の定め方/第九章 研究法/第十章 実演童話作法/〔附録〕参考書

 目次では、「童話」の語に、作品としての「童話」と、童話を口演することの両方の意味が混在している。以下では、単に童話とすれば、作品のことであり、特に童話の口演に関しては、童話口演とする。
 さて、憲堂は、口演童話界に、二つの大きな流れを認める。ひとつは、子どもを二義的な位置に置き、なによりも自分のために自由に語る「自由派」、童話口演の研究に熱心だが、形式を重視し枝葉末節にこだわる「枝葉派」。これらは、どちらも批判されるべき態度であるという。当代の状況がうかがえる指摘である。
 どういう態度が望ましいのかは、童話術が何を目指すかと関係する。憲堂は、「童話術の研究は自然を如何にして自然らしく話すことが出来るかと云ふことである」と述べて、「自然」であることを重んじる。たとえば、従来の童話口演の欠点を、「今日迄の童話は会場の大小を論ぜず、人員の多少を論ぜず、群衆心理が起る起らないにかゝわらずママ。群集心理を基とした大衆的な話をしてゐたのである、そしてそれのみが童話であると考へてゐた」(138頁)と指摘し、少人数なら小さな童話で静かに語ってこそ会場に合った童話と言うべきで、「どこ迄も自然と云ふことを忘れてはならない」と主張する。
 憲堂は、童話に必要な諸科学のなかに「教育学」「教授法」などをあげていて、童話は、教育を含むことが前提となっている。そのため、「よく田舎を廻る様な人の名刺に教育童話講演家」と肩書が記してあることが多いが、童話は教育的要素を含むので、わざわざ「教育童話」とする必要はないと述べる。憲堂のいう〈教育〉は、あからさまな教訓のことではないが、といって〈広い意味の教育〉という言葉から受け取るイメージよりはもう少し狭いようである。いずれにせよ童話と教育とは、不可分の関係とされている。
 技法以外の面でいえば、今までの童話口演の研究者は、本質を忘れて眼の動きなどの技巧面ばかりに流れているとして、童話口演の根本的要素を五つ掲げる。「明快」「気分」「同化」「温味」「個性」である。それぞれの具体的内容は紹介しないが、要するに聴き手と語り手とが渾然一体となり物語を楽しむための精神的なあり方を述べたもの。
 口演のための童話の性格については、「読ませるための話と、聞かせるための話とは全々違ふ」(46頁)ことを強調し、ラジオ童話への苦言を呈している。読ませる童話をそのままラジオで聞くと、読本の朗読のようで興味が起らない、もし子供の前でそんな話をやったなら、騒ぎ出してしまう。放送する人は、子供の前でも話し得る人でありたいというのである。口演童話と読む童話との相違を指摘したのは、憲堂だけではないが、童話口演の実践に裏打ちされているので、具体的で説得力をもつ。
 増補された第十章では、読む童話と話す童話を11項目について対比し一覧にしている(174〜175頁)。そのなかから3項目をあげてみると、まず「大切な生命」は、読む童話では「内容」だが、話す童話では、「表現」であるとする。これは、表現よりも内容を重視する意見(たとえば巌谷小波『童話の聞かせ方』など)などとは反対である。内容と表現とは本来密接な関係にあるから、憲堂が示すようには、簡単ではない。しかし、最初に述べたように入門書としての性格から、単純化されていて踏み込んだ考察はない。立派な内容でも表現が下手だと内容を壊すというにとどまる。全体は、おおむねこのような割り切った記述となっている。「言葉」では、「会話体が主になつて構成」されるとして、読む童話と口演童話のそれぞれが例示される。「組立上の変化」では、筋の変化を多くして、期待を持たせて児童を話に引き込む必要を説く。起伏に富む筋を、会話文で運ぶのがよいという。いわば、大衆小説的手法である。
 口演童話が、文学性という点において読む童話に及ばなかったのは、このような口演という形式に理由があるのは確かであろう。しかし、それぞれの形式には、形式固有の意義があるので、単純な比較論は無意味である。その意味でも、口演童話の果たした役割が見直されるべきである。

(藤本芳則)



唱歌「夏」と「夏は来ぬ」考(3)

上田信道


(承前)
 池田百合子は『童謡と唱歌』(既出)で、「夏」は「年代から言っても、『夏は来ぬ』の元歌ではありえません」と結論づけている。しかし、必ず制作順に唄が発表されるとは限らない。まして、《三木楽器店版》と《開成館版》の刊行はわずか一年の違いである。発表と制作の順が逆になっている可能性がある、と考えるべきではないだろうか。
 おそらく佐佐木信綱は、信綱の作詞とは別に小山作之助が「夏」を作詞していたことを知っていたにちがいないが、これについて信綱がどのような感想をもっていたかについては資料がない。
 それにしても、「夏は来ぬ」の旋律はわが国の唱歌中でも屈指の名曲といわれる。この旋律に、池へ金魚を放つという即物的な歌詞がつけられ、かつ夏休みの過ごし方についてあからさまな教訓までつけられているのは、やはり興ざめといわざるをえない。
 なお、「夏は来ぬ」については、真の初出である『新撰国民唱歌』(三木楽器店)版と、従来は初出とされてきた『新編教育唱歌集』(既出)版の間には、多くの校異が存在するが、佐佐木信綱の著作権が存続しているため全文引用はできない。そこで、岩波文庫『日本唱歌集』(既出)を本文にしながら、次の対照表をご覧いただきたい。
 また、『新撰国民唱歌』版では表題の「夏は来ぬ」を除く歌詞の総てが「夏はきぬ」になっているが、煩雑をさけるため、対照表では略した。

 日本唱歌集新編教育唱歌集新撰国民唱歌
(一)うの花のうの花のうの花の、
におうにほふにほふ
なきて、なきてなきて、
もらすもらすもらす、
(二)さみだれのさみだれの、さみだれの、
早乙女が[しづ]の女[め][しづ]のめ女[め]が、
ううるううるううる、
(三)橘の橘の立ばなの、
かおるかをるかほる
のきばののきばの軒ばの、
近く近く、近く、
とびかい、とびかひ、とびかひ、
おこたりおこたり[おこたり]
諫むる諫むるいさむる、
(四)ちるちるちる、
宿の宿の宿の、
すずしきすずしきすずしき、
(五)さつきやみ、さつきやみ、夏はきぬ、
とびかい、とびかひ、とびかひ、
卯の花さきて、卯の花さきて、卯木[うつぎ]花さき、
うえわたすうゑわたすうゑわたす、
 ところで、1942(昭17)年6月のこと、「国民合唱」というラジオ番組で「夏は来ぬ」が放送され、再評価の機運がもりあがった。同時に放送された曲目は、「忠霊塔の歌」(百田宗治・作詞/片山頴太郎・作曲)と、「軍神岩佐中佐」(読売新聞・選詞/東京音楽学校・作曲)である。
 一見すると、右のような軍国調の唄とともに「夏は来ぬ」を電波にのせるのは不思議なような気もするが、この時代には国民精神の総動員が叫ばれている。「夏は来ぬ」が日本の古典に拠って日本文化の伝統と精神を歌いあげているので、「忠霊塔の歌」や「軍神岩佐中佐」とともに放送されることは奇異ではない。
 このラジオ番組で放送された歌詞は、1942(昭17)年6月号の「音楽の友」誌で確認できる。
 このとき、二番歌詞の「賤の女」が「早乙女」にあらためられた。田植えに従事する若い女性を《賤の女=身分の卑しい女》と表現するのは古典の習慣にしたがったまでだが、日本文化の《浄化》というたてまえを優先する戦時下の文化統制下では、農民を《賤の女》と表現することは許されなかったのだという。
 また、このときの五番の歌い出しは「夏はきぬ、蛍とびかひ〜」であり、「卯木花さき〜」とも歌われている。『新編教育唱歌集』版が底本にされず、これより旧い形の『新撰国民唱歌』版が底本にされたのである。
 なぜ、古い形の歌詞がラジオ放送で復活したかは不明だが、小山作之助は佐佐木信綱より年長で、和歌の道では信綱の父の高弟にあたる。また、作之助が信綱に作詞を依頼した時点で、すでに高名な音楽家であった。事実、「夏は来ぬ」は先に曲があって後から詞がつけられるという、当時としては異例な経緯によって制作されている。成立の経緯からして作曲家優位なのである。
 そういうことからして、作之助の生存中は信綱に作之助への遠慮があったようだ。
 しかし、ラジオで放送される時点では、作之助はすでに世を去っている。何らかの理由によって『新編教育唱歌集』版は信綱の意向にそわないところがあったため、作之助への遠慮の必要がなくなったあと、信綱の意志が働いて、旧い形の『新撰国民唱歌』版が底本に採用された、と考えるのが自然であろう。
 作之助が信綱に作詞を依頼しておきながら、信綱が作詞した《開成館版》のすぐあとに作之助自身の作詞による《三木楽器店版》を刊行したり、信綱が旧い形の歌詞を復活したりした背景には、ふたりの間のこうした関係が反映していると考えられないだろうか。
 「夏は来ぬ」が発表された当初は、美しい旋律が褒めそやされ、この唄が世にひろく歌われるのは旋律が優れているからだ、という評判があった。信綱はこの評判を気にして『佐佐木信綱全集』にこの唄を採り入れなかった、という説がある。
 そればかりでなく、作之助の没後にいったん旧い形の歌詞へもどしながら、結局は信綱の意に必ずしも添わない歌詞が世にひろまっていった。しかも、「夏は来ぬ」は作曲家の立場が作詞家より優位にあった。このあたりに「夏は来ぬ」が『佐佐木信綱全集』に採り入れられなかった理由があったのかもしれない。(完)