インターネット版

児童文学資料研究
No.97

発行日 2004年8月15日


目  次


「教室」収録の児童文学論(4)大藤幹夫
葛原■{茲>凵}『童謡と教育』藤本芳則
文部省の新体詩募集について(1)上田信道

「教室」収録の児童文学論(4)

  昭和16年4月1日発行
  厚生閣刊

「現代の童話と童話作家」(二) 滑川道夫


 武田雪夫を「幼児童話」の第一人者と認めての論評である。氏の作品を「幼児への絶対の愛情と道徳性」と認定する。同時に「「愛情」そのもののもつ脆さ」も指摘されてある。「円満な温情」「円満な常識的な健康なもの」そこに「幼児童話作家としての不動の地位が形成されてゐる」としたら幼児童話の「脆さ」そのものではないか。
 具体的に作品に即しての批評が続く。
 『銃後童話集に日の丸の下に』などは「あまりにやさしすぎ、温かすぎる。温室的な美しさ」は「作家自身がきびしい内省と検討を加へていいことだ。」『少年地理・支那だより・中支の巻』は「世間的な注目はひかなかつたやうであるが、氏のこれまでの著作の中では高く評価していいもの」とある。
 おもしろいのは、浜田広介の「子燕とたぬき」と武田の作品(題名記入なし)との比較である。武田の作品は、おとうさんに日の丸の凧を買ってきてもらう約束をする。帰りを待ちくたびれた子どもは迎えに行く。そして他のおじさんとおとうさんと間違って飛びついてしまう。「明日この凧を上げよう。二人で家へいそぐ」というあらすじである。「人違ひをした気まりの悪さバツの悪い思ひを作者は意識的にさせてない。すぐ後ろからお父さんに肩を叩かせて救つてやつてゐるのである。愛児のために遠い所まで探して凧を買つて来る親の愛情とともにかういふところにかういふ形で氏の愛情が示される。」これではまったくの道徳教材である。「氏の作品に愛情とともに在る道義性」という言葉があるが、それは「古い形態の道義観念とは区別さるべき」とあるがまさに「古い道義観」そのものでしかない。
 浜田の作品は海に上に落ちた子燕をたぬきが蘇生させる。「読む子供達は「かはいさうよ」なんて涙をこぼすのである。そのあげくのはてに子供達を救つてゐるのである。」「全く対比的に扱ひ方がちがつてゐる」と論調から武田に組する書き方であるが、時代の童話観を示したものになっている。「氏の「美しい日本の子供」が「美しく強い日本の子供達」として具現する」とことさらに「強い」を強調するあたりに時代が読める。

 酒井朝彦の作品は、滑川によれば「氏独自のもの静かなあくまでも落ちつきのある様式」をもつものである。今「生活童話」が言われる時、「郷土的な子供の生活の視点を設定することによつて、文芸童話と生活童話との揚棄を企図してゐるやうに見える。」それが「もつとも自然な当然な展開であつた」。とすれば、「文芸童話」と「生活童話」とは別種のものだろうか。
 酒井の作品の特徴を「生活語の会話の運び方に藤村的なものを感じさせられる。」「生々とした方言の会話が効果的」と認めながら、「書き過ぎ(寄り道)」を指摘している。「会話の方言については一考を要する」という。その理由は「現在のやうに国語問題・言語教育問題のやかましくいはれる時代に、方言を意識的に成長期にある子供達に与へなければならない理由は一体何であらうか。」ここに滑川の児童文学者より国語教育者としての発想がうかがわれる。「さう書かなければ文学的な感が出ないといふならば児童物を書く資格を疑はざるを得ない。作家の趣味や懐郷的郷愁的なものならば作家の自己満足であり自慰にすぎない。」と厳しい。その結果を「郷土に忠実な氏の作品(方言でかゝれたもの)は、読者にはなはだ不親切な結果を招来してゐる。」と断じている。95号で紹介した「方言の中に生かされてゐる美しい情愛と、精神と、リズムと、まごころとを、方言によつて生き生きと表出したい」という酒井の意図がどれほどに読み取られたのだろうか。そして「酒井氏に望みたいこと」として「懐郷的生活性を現実的生活性に発展させることである。」と書かれる。子どもの読み物は「現実的」な生活に役立たないとだめなのだろうか。方言についての前段の見方と後段のそれとは少し違和感のある論調である。

 石森延男について「世の多くの少年小説に見られない子供の生活性と異国的な生活様式・感情とが相絡んで、新鮮な少年小説たらしめてゐる」と好意的である。ここでも「生活」が繰返されている。「さびしさを内にこめた詩的な筆触」ともある。石森が子どもを対象として書いた作品を「よみもの」と呼んでいることをとらえて「狭い童話でなくともいづれ児童文学といふジャンルにおいて評価されるものであらう。」と書く。童話と児童文学のジャンルの違いを認めた言葉なのか。石森の作品が「象徴的」な「子供にとつて其の場で割り切れない高度なものが時に提示される。大きくなつてもう一度読み直しなさいと作者がいつてゐるやうな作品が少なくない。それでいいぢやないかと嘯いてゐるやうな作品」を認めて「美しい表現面で氏の文学は構成されてゐる」。先の酒井に対する書き振りと比べて違いがはっきりする。(当時、石森は文部省図書監修官として教科書つくりに携わった国語教育学者。)石森への注文は「北国的な情熱と意欲に貫かれた大陸的な、荒削りな美しさをもつた、長篇少年小説」である。
 ここで滑川の『少国民文学試論』(帝国教育会出版部、昭和17年)収録の「現代の童話文学と童話作家」と雑誌初出をくらべてみたい。
 書き出しの「お伽話(明治)…」の文末に「少なくともそれは昭和十三、四、五、六年のかなり著しい特色であり得た。」という文章が書き加えられてある。生活童話がいつのころから時代に迎えられたかの証言になっている。
 また「創作童話」が「生活童話」に推移したと書かれる部分にも「創作童話が生活童話(昭和初頭)さらに国民童話への推移」と書かれ、初出になかった「国民童話」の名があることに注目したい。それは「児童」を「少国民」と書き改められたことにも通じる。
 初出と単行本の時の流れを示す部分を拾い上げることになる。「建設的な生活童話」が「建設的な国民童話」に改められている。
 書き換え部分の「生活童話」から「国民童話」への移行も「国民生活童話」になり、「日本児童文化協会(仮称)」の前に「国民学校制の確立、さらに大東亜戦の開戦による国民的感激の盛り上がりがその大きな契機となってゐる。また最近結成された日本少国民文化協会」とある。初出は昭和16年3月、単行本出版は昭和17年9月。まさに時代の曲がり角の証言である。
 童話作家への「これからの期待」が表明された後に以下の少し長い文章が挿入される。
 すでに「児童」が「少国民」と呼ばれたそのこと自身が象徴するやうに、社会的存在者として考へた日本的ならざる児童観が自己維新をとげ、真の日本人のあるべき姿から少国民観が把へられる情勢に立ち至つた。ほんものの国民童話が生まれる素地がかくして出来かゝつたものといはなければならない。
 小川未明の項の書き出しに「少国民文化協会設立の会合などで」と未明が卓を叩く場所が示される。また未明童話の暗さに触れた箇所には「哀感」が書き添えられる。
 浜田広介については、あまり書き変えはない。「広介童話には、未明童話に見られるやうな積極的な熱情がない」が「熱情は感じられない」にトーンダウンしている。
 「ひろすけ童話」の特性として数えられた「心理的手法とリズミカルな表現」が「心理的手法とリズミカルに畳み込んだ表現と表現上の独特なリアリズム」に変わる。「独特なリアリズム」については触れられない。

 坪田譲治については、さらに修正が少ない。
 「「童話作家」の文壇的向上を同存し得ない要因」が「「童話作家」の文壇的向上をともなひ得なかった」とわかりやすい表現に改められた。「心理的な生活の中で社会的な動きを覗くやうな弱さを招来してゐる」の後に「それはそれでいいのである。」と書き添えられ、ここでもトーンダウンしている。
 単行本では石森について書かれた結びの文章の後に次の文章が付け加えられている。
 官吏としてまた作家としての、そしてそこから派生するであらうさまざまな困難に対して線の太い生き方をしつゝぐんぐん作品を発表する「力」は、やはり北方的なたくましさでもあらうが、石森氏のもつえらさの一つとして理会されていいものであらう。あの美しすぎて耽美的とさへ思はれる表現面をぐんとささえてゐるものもこの「力」である。これからはむしろ、あの美しさよりも、北方的な力、満州で鍛へ上げて来た強さ、しぶとさをこそ表面に押し出すべきであらう。それはこれからの少国民文化に求められなければならないところの「力感」であると思ふ。

(大藤幹夫)



『童謡と教育』

葛原■{茲>凵}著
大正12年7月30日
内外出版

 四六判、179頁、85銭。内外教育叢書の第十巻として刊行。この叢書は、廉価版で要領よく教育潮流の各方面の中心を見通せるよう書き下ろしたもの(土田杏村「発刊趣旨」)。
 葛原は、「自序」で、小学校教員は「児童文芸上のあらゆる問題について」深い関心をもつべきだと繰り返し述べている。前年『童謡の作り方』(培風館、大11)を著し、創作法について論じたが、本書は、子どもにとっての童謡の意味を、教育的視点から90余編の童謡を引用して説く。
 葛原は、まず童謡の語義を次の三つに区分する(5〜6頁)。

一、児童が、児童自らの為に作るものであるか
二、児童の為に、大人が作つて与へるものなのか
三、大人が、自らの興味の為に、児童の世界を歌つたものか
 この区分は、そのまま散文(童話等)にも通じよう。現在では、「童謡」は、通常二番目の意味に使用されるが、葛原は、「ほんとうの童謡は/児童の間から生れるものだ。」(6頁)とする。そのような童謡を拾って世に出すのが大人であるが、そうでない童謡もあるとして、二種類をあげる。
 ひとつは、「『童謡は、大人をして童心に復帰せしむれば足る』」とするもので、「児童の世界を歌つたものであるが故にのみ、童謡といつてゐる」が、児童の理解を条件とせず、「作者たる大人自らが、満足すれば足る」とする考えである(8頁)。葛原は、このような童心主義的童謡を否定し、子どもに受け入れられる必要を説く。
 もうひとつは、「口調は悪くても構はない」とする意見。これには、「童謡を、すべて自由詩といふことは出来ても、すべての自由詩が、童謡である」とは言えないと、童謡が「[謡ひもの]」(9頁)である点を強調する。
 小学唱歌より、具体例を挙げて批判する。たとえば、「日の丸」をとりあげ、「朝日の昇る勢見せて」の「昇る勢見せて」の味わいや、「あ(ママ)美しや/あ(ママ)勇しや」の挿入句の面白さや、「日本の旗は」と、主語を倒置させて結ぶ技巧などが、尋常一年に分かるか、という具合である。このほかに俎上にのせられるのは、「おきやがりこぼし」「桜」「二宮金次郎」「小馬」「田植」(引用のまま)など。多くは、語句や技巧に対する批評だが、それだけではない。「小馬」では、内容に踏み込んで、「お前が転べば わたしも転ぶ/走れよ走れよ 転ばぬ様に」には、がっかりしたとして、「大正幼年唱歌」第一集(目黒書店、大4)には、「お馬」を「先づ作る事を忘れなかつた」(一九頁)と述べる。「お馬」は、「(略)山でも/坂でも 一とびに/とびこえ/とびこえ/勢 こめて/進めよ/進めよ/日本のお馬」(20頁)というもので、葛原が、どのような方向を目指していたかがうかがえる。
 このように、「甚だしい非児童語、非児童思想」を否定して、子どもの理解力などを重視するのは、初等科訓導を経験したことや、児童雑誌「小学生」(本書「自序」によれば「国定教科書練習雑誌」の由)の編集主任を勤めたこと、「少年世界」「幼年世界」の編集に携わったことなど、子どもを意識せざるを得ない状況にあったことと無関係ではないだろう。
 小学唱歌に続いて、現行の童謡の問題点五つを列挙する。
一、詩である事を重んずるのあまり、内容が、あまり高級なもの。
二、感傷気分が濃厚なもの。
三、内容が粗雑であつて詩興の乏しいもの。
四、恐怖の念を強からしめるもの。
五、用語や語法に注意の足らぬもの。
 それぞれ具体例をひいての記述で、分かりやすい。
 「一」では、露風「真珠島」ほかがあげられ、「大人にも、すぐにはわかりさうもないもの」(43頁)と手厳しい。「二」では、悲哀をうたったものとして、「わかれた母さん/裏戸から/この頃 母さん/ちつとも来ない」(作者名無し)のような例をひき、「悲哀に近づかうとする事は、最も避けたい」(47頁)と主張。ただし、「この種の童謡の深い意義を教育的に認めておく」として、「妹いぢめをし、女中のいふ事をきかぬおてんばさんに」、雨情の「十五夜お月さん」を、「歌はせる事が出来たらしんみりともして来よう」(55頁)と肯定的意見も述べる。しかし、童話や童謡をこのように直接〈情操教育〉と結びつけてしまうのは、あまりに短絡的だろう。「三」は、「挙げて評するだけ野暮」といわれるような童謡。「かなり名のある人の作」も引用されているが、さすがに作者名は明らかにしていない。「四」では、「児童は、すべて、恐怖には敏感であつて、恐怖に対する意識が非常に、明確である」として、恐怖を感じさせる内容の童謡は否定される。「海鳴り」(露風)、「雪のふる晩」(白秋)その他が、この例にあげられている。「五」には、リズムを優先させるあまり重要な字句を省いてはならないこと、しかし、リズムは必ず必要なこと、さらに方言の使用は慎重を要すことなどが説かれる。方言に関しては首をかしげたくなるところもある。大阪方面の言葉は「やさしみがあり、美しさがある」、といいながら関東弁は粗野と、地域によって違いを認めるところなどである。語感に捕らわれすぎて、方言使用の内的必然性に目が向けられていない。
 以上のように述べてきたところで、童謡とは、「内的にも外的にも、児童を幸福にして現在と未来とに、より善き生活を与ふる詩である、歌である。謡ひものである。」と定義する。詳しくいえば、内容は、「純、真、美、そして正、そして善。全体としての力」のあること、形式は、「明快」であること、さらに具体的には、「児童の経験と想像とによつて、十分、理解されるもの」、「児童の実生活と心理過程とに特に注意を払つてあること」、「何よりもまづ、児童を喜ばすものでなくてはならぬ」との三点を示す(106〜107頁)。子どもに寄り添う童謡観は、評価すべきだが、「詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである」(萩原朔太郎)というような〈なぐさめ〉としての童謡は、葛原の視野にはない。
 最後に「童謡と諸学科」の章を設け、国語の読み、綴り方、図画などとの関連を述べるが、略。

(藤本芳則)



文部省の新体詩募集について(1)

上田信道


 1908(明41)年6月、旧文部省ではひろく一般から新作の新体詩を募集している。新体詩は国語読本および唱歌教科書に掲載するためのものであった。
 国語読本とは、1909(明42)年から使用が開始された第二期『尋常小学読本』(いわゆる「ハタ・タコ読本」)である。
 唱歌教科書とは、同じ年に発行された『尋常小学読本唱歌』(全1冊)および1911(明44)年から1914(大3)年にかけて発行された『尋常小学唱歌』(全6冊)を意味している。『尋常小学読本唱歌』は、第二期『尋常小学読本』の韻文教材から選んだ詩に作曲したもので、ここに収録されたすべての唱歌は『尋常小学唱歌』にひきつがれている。
 ここでは、まず、新体詩の募集条件について資料を紹介しておく。
 これは1908(明41)年6月10日付「官報」(第7485号)の記事で、「新体詩懸賞募集」として掲載された。全文を引用する。

今般当省ニ於テ左記ノ条件ニ依リ広ク新体詩ヲ募集ス 明治四十一年六月 文部省

一 歌題ハ別ニ之ヲ定メス
二 歌詞ハ天然人事ノ何タルヲ問ハス美感ヲ養ヒ情性ノ涵養ニ資スルニ足リ小学校用ノ読本又ハ唱歌教科書ノ程度ニ依レルモノタルヘシ
三 歌詞ハ尋常小学校第一学年及第二学年(第一部)ハ口語体トシ同第三学年及第四学年(第二部)ハ口語体又ハ文語体トシ第五学年以上(第三部)ハ文語体トス
四 歌詞ハ四句又ハ六句ヲ以テ一節トシテ第一部及第二部ニ於テハ総計二十四句以内第三部ニ於テハ三十二句以内トス而シテ句ハ七五調七七調其他何レヲ採ルモ可ナリト雖モ各節ノ字数一様ナランコトヲ要ス
五 応募歌詞ハ本年八月三十一日附当省ニ到達スルヲ要ス
六 応募歌詞ハ同一ノ題ニ就キテハ一人一首ニ限ル
七 応募者ハ歌題ノ下ニ歌詞ノ相当スル部(第一部第二部又ハ第三部)ヲ朱書シ部毎ニ用紙ヲ異ニスヘシ但シ用紙ハ半紙大ノモノニ限ル
八 応募者ハ宿所氏名ヲ歌詞及封筒ニ記入セスシテ之ヲ別封ニシ更ニ歌詞ト同封ノ上文部大臣官房図書課長宛ニテ差出スヘシ
九 応募歌詞ハ当省ニ於テ審査シ第一部第二部及第三部ノ最優等者ニ各金五十円乃至百円之ニ次ク者ニ各金二十円乃至五十円ヲ授与ス但シ等外ノモノニテモ佳作ト認ムルモノハ数ヲ限ラスシテ之ヲ採リ金五円乃至二十円ノ賞金ヲ授与ス。
十 入選歌詞ノ著作権ハ当省ニ属スモノトス又該歌詞ヲ教科書等ニ掲載スル場合ニ於テ当省ハ之ヲ修正スルコトアルヘシ
十一応募歌詞ノ原稿ハ返付セス

 いかにも教科書教材に採用する詩の募集要項らしく、口語体と文語体の使い分けや、詩の長さの指定などを、学年に応じてかなり詳細に規定している。注目すべきは、国語読本教材とはいっても、読むための詩ではなく、最初から曲をつけて歌うことを想定した詩を募集したことであろうか。
 なお、この年の米価は10キロあたり1円7銭である。優等(一等)賞金の100円から佳作賞金5円は、それなりの金額だといえよう。
 審査結果は、1908(明41)年12月21日付「官報」(第7647号)に、「学事」として掲載されている。この記事についても、全文を引用する。

○懸賞募集新体詩審査報告
 文部省ニ於テ曩ニ懸賞募集シタル新体詩審査報告左ノ如シ (文部省)


文部省ニ於テ曩ニ小学校用国語読本又ハ唱歌教科書ニ掲載ノタメ新体詩ヲ懸賞募集シタル(本年六月十、十一、十三日官報広告欄内参看)ニ付キ之カ審査ノタメ文学博士上田万年、同芳賀矢一、阪正臣、大和田建樹、佐ママ々木信綱、上真行、巌谷季雄、渡部董之助、吉岡郷甫、森岡常蔵ニ委員ヲ嘱託シ審査セシメタルニ応募ノ歌詩総数千四百二十一首ニ就キ先ツ百九十二首ヲ選出シ次ニ其百九十二首中ヨリ優等二首之ニ次クモノ三首及佳作ト認ムヘキモノ十七首、合計二十二首ヲ選出セリ依テ募集条件ノ旨趣ニ従ヒ入選ノ応募者ニ対シテハ夫々賞金ヲ授与セリ而シテ入選ニ係ル歌詩ノ著作権ハ同省ニ於テ之ヲ有スルコトヽセリ其受賞人名左ノ如シ

 第一部 
   
キンギヨ二等柏木亀三
時計佳作前田純孝
コウマ石原和三郎
にんたい同 人
   
 第二部 
   
田舎の四季一等堀沢周安
歌舞二等池田喜雄
木の葉舟佳作大岡義次
知れよ人々山本朝吉
   
 第三部 
   
奈良一等堀沢周安
三才女二等石原和三郎
海の子佳作宮原知久
補助輸卒吉野歌彦
春ヲ待つ歌 山本実嶺
捕鯨船小野村林蔵
森林の歌山本実嶺
足柄山石原和三郎
春の村安藤安次
八波則吉
驟雨吉川亀六
四季の歌松浦健太郎
広瀬中佐前田純孝
農夫尾知山晴男

(未完)