インターネット版

児童文学資料研究
No.98

発行日 2004年11月15日


目  次


「教室」収録の児童文学論(5)大藤幹夫
奥野庄太郎『お噺の新研究』藤本芳則
文部省の新体詩募集について(2)上田信道

「教室」収録の児童文学論(5)

  昭和16年3月1日発行
  厚生閣刊

「明治・大正・昭和児童文学瞥見」 菅忠道


 本稿はすぐれた日本児童文学史の研究者であった著者の示唆に富む論稿である。
 たとえば「明治のお伽話から大正の童話への移り行きは断層を為すほどの発展として語られてゐるが、果して無条件に肯定できるものかどうか。また、児童文学における文学性の向上は、明治のお伽話から大正・昭和にかけての童話の発展といふ系列の中にのみ探りうることで、少年小説といふやうなジャンルの歴史の中には非芸術的な伝統を見出すだけであるとも語られてゐるがこれに関して或は文学的精神の面から、或は文字とか文体などの面から考察を進めることが必要なのである。」といった提言は現在の日本児童文学史研究にも生かされなければならないだろう。
 また「近代的児童文学の生誕期を飾る記念碑」とされる巌谷小波の『こがね丸』への「馬琴調のスタイルに古めかしい仇討物語を盛つたもの」との批判を認めながらも「全体の構へには、新しい文芸形態の創造を目指す気迫が窺われる」「何よりも先づこの作品を文学として整へたいといふ願望が強く働いた」と読んでいる。「文学として顧みられることのなかつた児童の読物を、文学といふ名に値ひする境地にまで高め、そして何よりも文学として世間に認めさせるといふことが、この場合の眼目であつた。そこには、文学的擬態とはいひ切れぬ、野心的な構へが窺はれるのである。」との〈よみ〉も開陳される。
 明治期のお伽話の特質を「教訓と娯楽を如何にして調和させるかといふ」ところに認めている。「「教訓」が児童文学の存在権擁護のためにも動員されねばならなかった」時代に重ねている。そして、その「教訓」を「一個の世界観・人生観の表白」という。「教訓的お伽話の場合には、教訓に寓せられる常識的な世界観・人生観が、現実を遊離して概念的に語れる」と時代の中での読みを求めながら、それを「現実に対する妥協」と現代的読みを重ねる。
お伽話=童話といふ文芸形態は、複雑な人生の相を大掴みに捉へ、文学的形象によつて基本的な形に整理することいひかへれば世界観・人生観を端的に表現するに最も相応しいものである。ノヴァーリスや小川未明が、童話といふジャンルを高く評価した所以である。こゝでは、教訓に代つて詩的精神が作品の底を流れてゐるのである。新しい童話文学の探求は、既成の教訓などに捉はれずに、詩的精神をもつて現実を凝視するところから始められた。明治末年からの小川未明の歩みの跡は、それを物語つてゐる。
 改めて「童話」のありようと小川未明の位置づけが確認される。
空想的なロマンチックな作品が、何と痛烈に現実を反映してゐることか。芥川龍之介の「杜子春」にみる烈しさ、有島武郎の「一房の葡萄」にみる痛々しさ、このやうな作品に接すると、児童文学における文学的態度といふことが、決して生易しい余裕からは出て来ないのだと考へさせられるのである。
 巌谷小波門下の興した少年文学研究会の組織や作品集の刊行に触れて、「その意図は高く評価できるものの、具体的な作品に示されたものは、極言すればセンチメンタリズムに過ぎなかつた。」と厳しい。
 童話に文学性を確立するといふことは、大正の童話の標識とされたものであるが、童話の黄金時代と謳はれてゐる大正半期においても、このやうな文学的態度に徹した作家は寥々たるものであった。
 では誰が「童話の黄金時代」を担ったのか。文壇作家の「赤い鳥」への寄稿が知られるが、
なるほど整つた描写は明治のお伽話とは較べものにならぬほど高まつたとみられる。しかし、文学的態度といふ点で、どれだけの真摯さがあつたかは疑はしい。そして、それは、今日の問題でもあるのである。子供に対して先入観をもつてしまひ、子供とはこんなものだと甘くみてしまふ態度所謂調子をおろしてしまふ態度が、先ず問題なのである。これは、文学をふりまはして子供を無視してしまひ、ひとりよがりにいゝ気になるのと同じやうに、子供に対して愛情を欠いてゐるところから起つて来ることなのである。
 この課題が今日果たして払拭されたと言えようか。
 明治期の児童文学について「子供の考へは空想に富んだものであるといふことを認めるところに、明治のお伽話の積極的な主張があつた。」と認めながら、
こゝで考へられた「子供の空想」は、実に大人が考へた「子供らしさ」であり、「こしらへものの空想」に過ぎなかつた。だから、今日、明治のお伽話を読み返してみると、現実と空想との交錯は、ギクシャクした後味の悪いものに感ぜられるのである。それに、お伽話の脚は「教訓」といふ重い鎖に縛られてゐたので、せつかく発見することのできた「空想」の面白さを、自由に飛翔させ得ないで終らねばならなかつた。そして、新しく台頭して来た冒険小説のもつスケールの雄大な空想に、敵することができないやうになつたのであつた。
 まるで歴史が反転する思いで読める。
千葉省三の田園生活に取材した作品が現れるやうになつて、児童文学におけるリアリズムも本格的になることができた
とは戦後の千葉省三の再評価を先取りした評価である。
大正後半期の童話興隆も、結局は一つの社会的流行に過ぎなかった。本格的な作品活動を行つたものは、やはり少数に止つてゐた。
との時代を見据えた表現も見られる。
扇情的な伝奇、剣侠小説、感傷的な少年少女小説といふ風に、一概に否難されて来た少年文学の系列も、文壇人(大衆文学をも含めての)進出に伴つて、童話が文壇人の進出に呼応して文学的表現において高まり得たやうに、見ちがへる程の向上を遂げてゐた。吉田絃二郎や大仏次郎の作品、またサトー・ハチローの作品にしても、再検討されねばならぬものを数多くもつてゐると思はれる。こゝには童話作家が伝統的に持たなかつた何かがある。
とは、これも戦後の芸術的児童文学と大衆的児童文学のありかたを巡っての論議につながる発言である。
 「生活童話」についても、
空想から出発した童話も、現実を凝視する文学的態度で、所謂「生活童話」の建設に邁進してゐる。こゝまで来れば、文芸上のジャンルとして童話を少年小説から区別するけじめは、余り明かではなくなつてしまつた。今日、童話作家の間に少年文学研究の機運が台頭そいてゐるのも、謂はれないことではない。(略)生活童話が描く生活とか現実は、子供の狭い世界に限定される風潮が強くなつてゐる。(略)童話文学の描かねばならぬ世界は、それよりもつともつと広い人生ではなからうか。
として、『新児童文化』第一輯の坪田譲治、小川未明の作品をあげて、「単なる子供の生活姿態のスケッチではなく、極めて簡明に、しかもリアルに描かれた人生の姿であつた。これからの児童文学の発展せねばならぬ方向を示唆するものであらう。」と結んでいる。

(大藤幹夫)



『お噺の新研究』

奥野庄太郎
大日本文華株式会社出版部南北社
大正9年9月28日

 菊判、322頁、函入。「成城学校研究叢書第七編」として刊行。目次欄に記された題名の横に「聴方教授の提唱」とサブタイトルが丸括弧に括られて付記されている。成城小学校での「聴方教授」の実践から生れたもので、成城小学校長澤柳政太郎の「序」に、「大部分は著者の実験と思索の結果」とある。教育的視点から童話の意義や価値を説くのは、明治からみられるが、著者の教員として児童に接した経験をもとに、具体的に論じている点に、本書の特徴があるだろう。およその目次は次のようなもの。

緒論  
第一編 お噺と教育 
   第一章 お噺の興味
   第二章 お噺の教育的価値
第二編 お噺の材料 
   第一章 優秀な童話
   第二章 年齢と材料
   第三章 選択材料
第三編 聴き方の実施 
   第一章 方法実際
   第二章 実施の情況
   第三章 結論
結論  
 子どもたちが夢中になる「お噺を幼年時代の教化の資料に用ゐないのは嘘である」とする考えが、「聴方教授」の根底にある。
 まず、子どもと空想との関係を、「空想も現実も渾然とした実人生そのもの」とみて、「凡てに於て児童の生活は非現実的空想的」だとする。このことを、児童の発言をもとに具体的に示す。
 奥野のいう「お噺」とは、「元来お噺は遠き祖先の物語であって」とあるところから、伝説、昔話の類を意味している。これらは、民族発達の前期に誕生したものだから、人生の出発期に位置している子どもの心情、道徳観などと重なる。ここに、子どもが「お噺」に惹きつけられる理由があるとする。このような見方は、同時代にひろく受け入れられていたもので、子どもと昔話との関係を述べた類書には、必ずといっていい程顔を出す。子どもが「お噺」を好むのは、「単なる好ママ智心や、皮ママ想な退屈さましの為ではなくて、深い内容をもつた、本能的な、精神生活創造の為の本質的欲求」というのが、第一編第一章の結論。
 教育的価値に関しては、諸説を紹介し検討しているが、なかでも西宮藤朝著『解放の教育』の所論への反論は興味深い。西宮は、純文学的立場から、教育における教訓的文芸を否定する。そのポイントは、教訓的文芸は、勧善の観念に基づいていた作り物であり、人間の本性を描き出せない、だから、本当の感動を子どもに与えられないし、悪の本当の姿に接することもできない、というもの。これに対し、奥野は、空想の重要性を指摘し、芸術は人生観の宣伝という面をもっているから、教訓を目的としたからといって低級とはいえないし、読者の発達段階を考慮しなければならないと、反論する。「大人の頭で童話を批判したり、その価値を論断するのは決して親切な仕方ではない」というのが、奥野の基本姿勢であった。奥野の想定する子どもは、語って聞かせる「お噺」の対象ということから小学校一年から三年くらいまでの子どもである。反論の当否は別にして、一般文学と児童文学(それも幼い子ども向け)との相違を指摘しようとしたものと読める。
 幼児期を、「大人になる為めの準備的時期のみでなく、夫れ自身厳粛な独自の価値を有して居る」ととらえ、「お噺」は、この時期の「唯一の精神的食物」とする。幼年期の空想の生活は、生長にともない進化し、後年の精神生活につながる。また、空想は、理想に発達するので、「空想は実ママ想」であるというのが二章の結論。
 第二編では、童話に希望することとして、「児童の本能に根差したもの/児童の興味を顧慮したもの/民族的情趣に富むもの/叙述描写が直叙明瞭/招来の童話は内容の深いもの」の五点をあげ、それぞれを説明する。最初の、「児童の本能」「児童の興味」は、子どもの興味関心を踏まえることである。たとえば、子どもは魚をすくったり鳥を捕まえたりする狩猟本能を持つというように、細かく具体的に示されている。これらは、子どもと接する日常から見出されたものであろう。「児童にはママ特自の興味、大人の興味と異なつた子供の興味の世界があるといふことを考へて此の興味を顧慮してもらひたい」というのが、結論。子どもの興味関心を重視する発言は、奥野が教員であったこともあるだろうが、大きくは、当代が人々の関心が子どもに向かった時代だったこともあろう。
 次に、童話の内容にふれて「民族的情趣」の尊重を唱える。少年雑誌や課外読物が、「多くは西洋趣味のもので、国民的な情趣の豊かなものは甚だ少ない」ので、日本の風土民情に沿った童話を与えたいという。外国童話が好まれるのは、「複雑変化性」が多いからなので、日本の童話でも「複雑変化性」を与えれば必ず読まれると提案する。「複雑変化性」とは何をいうのか明確ではないが、筋立の面白さをいうとすれば、筋立よりも情緒性を重視したといわれる幼年童話への批判でもある。さらに、奥野は、将来の童話を、「大人になつて振り返れば振り返るほどその中に深い思想と人生を見出し能ふやうな、広い大きな意味の内在して居る童話」でありたいと言う。しかし、「童話である以上児童の本能興味に即して」いなければならないと、あくまで子どもを中心におくところに、未明のような児童文学作家との違いがうかがえる。
 第二編第二章では、小学校一、二年には空想的お伽噺がふさわしく、三、四学年には歴史譚が好まれるという、発達段階と読書傾向に関する一般的な説を検証している。勤務先の小学校での調査だったのか、20名余の少人数を対象にしたものではあるが、「児童の興味が段々空想的童話から、事実的暦史譚に移つて来る」という結論を得ている。同時代には、現在とは異なり歴史譚が多い。教科書類にも掲載されることが多かったためであろう。
 第三編「聴方の実施」は、いかに語るかを中心に記述。聴いたあとの整理法として、お噺を纏めておいて「書物によつて之を読ましむる」のは、効果があるとしている。児童図書館などのストーリテリングとは目的が違うが、子どもと本を結びつけようとする点では共通するものがある。

(藤本芳則)



文部省の新体詩募集について(2)

上田信道


(承前)
 新体詩募集に入選した詩の本文については資料が残っていないので、内容の検証まではできない。
 しかし、その後、入選作の多くが『尋常小学読本』や『尋常小学読本唱歌』『尋常小学唱歌』に掲載されたことは、題名など各種の資料から推定できる。
 次に、その対応関係を記す。矢印の上は入選作のタイトル、矢印の下は教科書に掲載されたタイトル、丸括弧の中は掲載された教科書の名称。《読本》は『尋常小学読本』のこと、《読本唱歌》は『尋常小学読本唱歌』のこと、《唱歌》は『尋常小学唱歌』のこと。数字は掲載された教科書の巻を意味する。

「時計」→「とけいのうた」(読本3、読本唱歌、唱歌2)
「コウマ」→「こうま」(読本4、読本唱歌、唱歌2)
「にんたい」→「忍耐」(唱歌5)
「田舎の四季」→「いなかの四季」(読本7、読本唱歌、唱歌4)
「木の葉舟」→「木の葉」(唱歌1)
「三才女」→「三才女」(読本9、読本唱歌、唱歌5)
「海の子」→「我は海の子」(読本2、読本唱歌、唱歌6)
「四季の歌」→「四季の雨」(唱歌6)
「広瀬中佐」→「広瀬中佐」(唱歌4)
 「とけいのうた」は、金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌(上)』(1977 講談社)に「この歌の歌詞は前田純孝の作か」とある。『日本の唱歌(上)』に根拠は記されていないが、「官報」の記載と一致する。
 「こうま」については、同じく『日本の唱歌(上)』に「この歌の作詞者は、大槻三好氏の『石原和三郎と明治唱歌抄』によれば、石原和三郎である」「藤山一郎氏からの教示によれば、作曲者は山田源一郎である」と記載されている。「官報」にも石原和三郎の名が掲載されている。
 「いなかの四季」は従来から堀沢周安の作詞と伝えられていて、これも「官報」の記載に一致する。『日本の唱歌(上)』によれば「作曲は、中野二郎氏の『私の唱歌碑巡り』によれば、愛媛師範の鈴木重太郎だった」という。
 「三才女」は、従来から芳賀矢一の作詞と伝えられてきた。しかし、「官報」によると、石原和三郎の作である。この唄については、『日本の唱歌(上)』に「この歌の作詞者は、大槻三好氏の『石原和三郎と明治唱歌抄』によれば、石原和三郎である」と記載されている。「官報」に「入選歌詞ノ著作権ハ当省ニ属スモノトス又該歌詞ヲ教科書等ニ掲載スル場合ニ於テ当省ハ之ヲ修正スルコトアルヘシ」とあるので、あるいは石原和三郎の作に教科書の編纂委員であった芳賀矢一が手を入れたものかもしれない。
 「四季の雨」について、『日本の唱歌(中)』(1979)に、大和田建樹の作詞で小山作之助の作曲であるとの説が紹介され、さらに「芳賀矢一あたりが作りそうな歌詞である」という推測も記されている。「官報」によれば松浦健太郎の作だが、タイトルが《歌》から《雨》に変わっている。「四季の歌」が「四季の雨」の原作であるかについては、判断の難しいところであろう。
 「広瀬中佐」について、『日本の唱歌(中)』には「大分県竹田市の広瀬神社では、この曲の作詞者は巌谷小波と聞いている」「小松耕輔『わが想い出の楽壇』二三〇ページに従うと、この曲の作曲者は岡野貞一である」とある。「官報」によれば、前田純孝の作である。「三才女」の例と同じく、教科書の編纂委員であった巌谷小波が入選作に手を入れた、と考えられるかもしれない。
 「我は海の子」の作詞者は、従来から様々な説があった。「官報」によると、宮原知久の作であり、宮原知久は児童文学作家・宮原晃一郎の本名である。また、やや長いが『日本の唱歌(上)』に、次の記載がある。
この歌の作詞者にはいろいろ説がある。小樽在住の新聞記者だった宮原晃一郎氏が明治四十一年に応募したものとも言い、今の灘高校の初代の校長真田範衛だという話もある。編者(金田一春彦のこと―引用者)は国士館大学教授の岩井良雄氏から、芳賀矢一だという話を聞いたことがある。岩井氏によると、国文学者に玉井耿介という人がいたが、この人が芳賀の酒の席の供をし、芳賀が例によって正体ないままに酔ってしまったので、芳賀の家まで送り届けたが、芳賀はその席で、あしたまでに文部省のために唱歌を一つ作らなければいけないと言っていたことを思い出し、はたして出来上るかどうか心配だった。翌朝様子を見に芳賀家を訪問すると、芳賀は昨夜何事もなかったようなケロッとした顔で現れ、ああ、あの歌はけさ早く起きて作ったよと言って、きれいな字で書いた「ママわれは海の子」の原稿を見せたのだという。玉井は芳賀の詩才をたたえ、偉い人にはかなわないという趣旨で岩井氏にこの話をしたようであったが、芳賀はたしかにこういう作品を作りそうな人であり、そういうことがあってもよさそうに思われる。
 このように、芳賀矢一作詞説を紹介している。
 実際、芳賀家の子孫の間では、「我は海の子」は芳賀矢一の作である、と語り伝えられてきたという。
 ただ、前夜に正体なく酔いつぶれた芳賀が、早朝に起きだしてたちまちこの長い詩を書き上げたとする説には、いかに芳賀に詩才があろうとも、やや無理があるのではないか。「三才女」の場合と同じように、入選作に芳賀矢一が手を入れたと考えれば、つじつまがあうかもしれない。
 なお、宮原晃一郎作詞説については、鮎川哲也『唱歌のふるさと うみ』(1995 音楽の友社)に詳しい。この書には、東京・多磨霊園の宮原家墓域内に建てられた碑について紹介がある。

(未完)