インターネット版

児童文学資料研究
No.99

発行日 2005年2月15日


目  次


「少国民文学」創刊号大藤幹夫
内山憲堂『事変を子供にどう話すか』藤本芳則
文部省の新体詩募集について(3)上田信道

「少国民文学」創刊号

  昭和19年11月1日発行
  みたみ出版株式会社刊

 児童文学から少国民文学へ改称されたという意味でも戦中期の児童文学の出発点に数えられる「少国民文学」を読み返す必要にかられる。
 「創刊の辞」には「新シキ世代ノ児童文学者及ビ少国民指導者ノ積極的援助ヲ乞ヒ、祖国ノ輝カシキ理想ニ貫カレ、不撓ノ民族的生命力ヲ昂揚スベキ少国民文学ノ確立ヲ期シ、就中将来ノ重大使命ヲ負荷スベキ新シキ作家ノ養成ニ力ヲ注ガントス」とある。「新シキ作家」とは「八紘為宇ノ大精神ヲ広ク世界ニ顕現セントスル」に役立つ作家であろう。「少国民文化ノ畑ヲ概括スルニ次代ヲ継グ新シキ作家ハ絶エテ無キガ如シ」に本音が垣間見られる。
 「情報局文芸課長」の肩書きを持つ井上司朗は「巻頭言」にあたる「少国民文学の行くべき道」に「日本の伝統に目覚めさせ、日本的の魂を始めから植えつける文学、純忠至誠の人格に対して深い憧憬を抱かしめるやうな文学、気宇広大、大東亜の諸民族の心を抱擁するやうな大きな人格を培ふ文学、かうした境地に向つて精進する事こそ、少国民文学作家に課せられた崇高なる使命」とする。
 「新人作家への熱望」とある特集記事に「新しき少国民文学の待望」(岩崎純孝)がある。
 「環境と本能の理論」をかざす自然主義に立つ作家、「基督教的世界観、博愛主義、国際主義」の人道主義作家、「唯物主義の理念、階級闘争の歴史観」を持つプロレタリア文学作家たちが「何時の間にか少国民文学に筆を染め、瞬間的な思ひつきと、安つぽい構想と、時局的な匂ひをつきまぜて、多くの作品を書きあげて来たのが、少国民文学界の最近までの状況であった。」と解説する。「そこには日本的価値を基礎づけ方向づけるものがない。世界を驚到させ、日本怖るべしの畏怖を与へ、或ひはまた日本を尊敬させる要素がない」と言う。岩崎の求める「少国民文学」像が浮かび上がってくる。子どもは「本にかぢりついてゐても、何時でも友人がさそひに来れば、戸外の遊戯に欣然として移つて行くのである。」だから「思想性よりも情操性に惹きつけられる」。少国民書籍は「面白くなければいけないのである。面白さの中に思想を盛り、思想の中に面白さを込めなければいけないのである。」何のことはない講談社の「面白くて為になる」作品が、岩崎の言う「少国民文学」になる。
 時代の状況を次のように纏めている。

生活小説を取りあげて見れば、一方には必ず父兄の出征・応召があしらはれ、一方には旧い意識の感傷主義と悲観主義の色彩が濃厚である。前者は、明らかに作者の時局便乗のマンネリズムが新鮮味を喪はしめ、後者は在来の少年少女小説の域から一歩も脱してゐないと言へるのである。
 また童話文学の世界を見るに、学齢前後の児童が本能的に愛着をおぼえるやうな、奇想天外的な、或ひは驚天動地的な、或ひは非現実的な「夢」としての物語は皆無となり、大人の立場からのモラルで覗きすぎて鼻持ちならぬものになつて来てゐる。
 岩崎は、ここに「日本民族の真に逞ましい姿を現し、日本精神の真に美しいまこと真を示し、日本文化の優秀性を発揚してゐるものが見当たらないのである。」と言う。繰返されるのは「日本精神」であり「日本民族」である。「生還を期せざる一人乗魚雷の如き、明らかに日本的兵器であり、日本精神のこもつた科学力ではないか。」にいたっては狂気の言辞である。当時の岩崎の肩書きは「日本出版会少国民班長」であった。
 「美しき夢をこそ―少国民読物への要望」は寺崎浩の手になるものである。
 「戦争の中途から科学科学と云はれるやうになつた。まことに泥縄と
いふより外はない」「米国に比較するならば恐ろしい差違をもつて現はれるのは当然で、学童期を過ぎた少年が米国では常識としてあらゆる機械に親しんでいゐる」と認めているので安心していると、「極度に機械文化が発達し、その頂点に達し、飽和点に達した米国がそれをそのまゝ戦争に引きづり込んだ、まことにもつけの幸いだつたのだ。」と奇妙な論理にスリカエられる。「資本主義も極点であつてこれがこのまゝつゞけば米国は破滅に到る所だつた。」「日本は資本主義の非をさとつて中断し、資本主義を抑圧し転換しつゝあつた途上である。」「日本の生活化されてゐない部面でも科学は決して米国に優るとも劣つてゐない。」この期(翌年敗戦)にいたっての発言である。
 「日本の貧しい生活の中から科学への関心を高めるのはまことにむづかしく、殊に学童には至難である。」本音であろう。
 「それならばいかに児童に科学への関心を持つて行かすべきか。」「これは夢より他にない」これが寺崎の論理構造である。「大東亜共栄圏の理想といふことは長い間の日本の夢ではなかつたか。民族の解放といふことも夢ではないか。この夢が着々と実現してゐることはまことに大きな美しい夢ではないか。」「児童の生活を描いた所謂、くそリアリズム的な読物が児童に一体何を与へるといふのだらう。人間を低く小さくする以外にまづ効能はない。」
 それでは寺崎の薦める児童読物はどんなものか。それが小川未明の作品である。「今の児童物に、未明ほどの詩と美しさをそなへた読物は殆ど見当たらない。また未明ほど夢を描いてゐる読物も見当たらぬのである。」
 「北米、南米をして日本の植民地として、米人を奴隷として駆使する夢があつていゝではないか。」は岩崎同様の独善的発想である。
 「いづれにしろ、一般的に科学文化の水準は劣つてゐるのであるから、この水準を何とかして高めなければならない。この意味で容易すぎる少国民戦記は慎しむ要がある。」寺崎の奇妙な結論である。この一文を寺崎の単なる夢想として読み流すべきものなのか。
 戦中期の児童文学を考える上で見逃せない存在が佐伯郁郎である。彼の「満々たる自信をもつて堂々たる企画を」を紹介する。
 戦火が日増しに厳しくなり、子どもの多くは集団疎開を強制された。
 それに触れて佐伯は次のように強弁する。「田舎者が精神力の点においても、生活力の点においても比較的強靭である。そもそもの原因は何であるかと言へばわたしは「郷土」を持つてゐるせいであると思つてゐる。都会の少国民は、極言すれば、その「郷土」を持たない。今度の疎開は、それにはいい機会である。」ここに佐伯の姿勢がうかがわれる。
 子どもの読み物についての発言として興味があるのは「著者にも、出版者にも、ややもすれば出版会の顔をうかがひ、文部省、出版会の推薦をねらふといふ卑屈さが見受けられた。この低調さは、自らの不見識の暴露である。」当時の児童出版のありさまを知る者にとってこの佐伯の発言はどう響いたであろうか。「出版会の顔をうかがひ、文部省、出版会の推薦をねら」わなければ出版企業は成り立たなかったのが実情ではなかったか。
 壺井栄と塚原健二郎が、佐伯の「かねがね嘱目してゐる作家」である。
 「結論から共に言へば、壺井氏の「海のたましひ」は、近頃の白眉に属する作品である。塚原君の「船つくりの旅」は失敗作である。」
 「海のたましひ」は後に改題されて「柿の木のある家」として戦後にも読み継がれ栄の代表作になった作品である。それが戦時下にどう読まれていたか。
 「海のたましひ」は、よく少国民読物を読んで感ずる精神的な負担をいささかも感ずることなく、一気に読める作品である。謂はばそれほどにこくのある、うまい作品である。恐らくは、大人が読んで感ずる、この気持ちは、そのままに少国民にも通ずるものであらうと思ふ。その意味では、この作品などは、少国民に与へる作品は、大人が読んでも優れた作品であるべきだとの説を、たしかに裏付ける作品と言へやう。(略)
 「海のたましひ」は、時局が作品の中にとけ込んで、いささかも不自然を感ずることなく、作者の意図が読者に素直に受け取れる。(略)この作者の少国民へ対する愛情が、船員の父親の戦死を描きながら、少しも暗い、悲痛な感じを与へることなしに、子供の戦意を素直に燃えたたせることで終つてゐる。
 けだし、少国民に対する愛情に満ちた、近頃での優れた、豊かな作品であると言へやう。
 戦後『柿の木のある家』として読み継がれた評価と読み比べてみるのも一興であろう。

(大藤幹夫)



『事変を子供にどう話すか』

    ―戦時布教文庫第五輯―

内山憲堂
興教書院
昭和12年12月15日発行
昭和15年1月25日4版

 四六判仮綴じ、本文89頁、20銭。「戦時布教文庫」の第五輯。巻末広告文によれば、「戦時布教文庫」は、「あらゆる角度から軍国日本の仏教精神を高揚する戦時文庫」であり、「現下の時局に対しわが仏教家の言はんと欲する処を言ひ一般の聴かんと欲する処を説く其処に大乗精神の強く且つ大きい示唆がある」と謳われている。版元の興教書院は、仏教関係書を多数出版していた京都の出版社。
 同じく広告に掲げられた刊行書目を示してみると、第一輯『立信報国』、第二輯『護国の正法』、第三輯『聖戦の後に』、第四輯『戦線美談輝く仏心』となる。国会図書館の目録ではさらに第六輯『信仰に輝く戦時美談』(豊原竜淵著、昭13)、第七輯『銃後国民の覚悟』(豊原竜淵著、昭14)と続いているが、何輯まで出たのかは不明。
 このようなシリーズの中に、本書が加えられているのは、仏教日曜学校や仏教系の幼稚園などでの需要を見込んだからではないかと思われる。扉には書名や著者名とともに、著者の肩書「聖美幼稚園長」も記されている。
 憲堂が正式に浄土宗の僧籍に入ったのは昭和15年であるが、それより前、昭和9年に「聖美幼稚園」を開園し、特定の宗派に偏らない「通仏教保育」を始めている(内山憲堂『幼児と共に五〇年』昭50)。それまでにも子どもを対象とした宗教教育や口演童話に関する著述もあり、子どもにいかに語るかというようなテーマには最適の執筆者であった。
 「前書」には、「日々子供の眼に触れ耳に入る事変の姿―子供たちはそれをどう見てゐるか」と問題を提起し、目的を「本書は実際問題を主として、子供に事変の姿を正しく与へる諸注意について述べた」ものだとある。ここにいう事変は、いうまでもなく「支那事変」(日中戦争)のことである。発端となった廬溝橋事件は、昭和12年7月に起こっているから、本書はその五か月後の刊行である。時局にすばやく反応した際物とみることもできるが、子どもに事変の意味や意義を説く指針を提供しようとする姿勢には、たんなる際物の域を越えた意気込みが感じられる。
 目次を示す。

子供は事変をどう見てゐるか
年齢によつて違ふ話し方
時局の正しい認識
正確な知識を与へること
日本精神の涵養
挙国一致の精神
銃後の力
日本人はその罪を憎んで人を憎まない
敵兵(支那兵)の取り扱ひ
一〇 殺伐に陥らないこと
一一用語が乱暴にすぎないこと
一二事変童話とその取り扱ひ方
一三事変童話の話し方
一四結語
附録一、事変新語略解
 二、事変美談
 目次からもおおよそは分かるように、全体は話す内容と、話す方法とに大別される。ことに「事変童話とその取り扱ひ方」「事変童話の話し方」で20頁を費やしている。
 「子供は事変をどう見てゐるか」では、小学四年生くらいまでは、まだ概念的だが、六年生になるとやや少国民としての自覚がみられるようだと、例を示して述べる。元来事変は、子どもの生活に触れるものではないから、機械的に無批判に取り入れる、それゆえに、正しい時局の認識が必要、と続く。「時局の正しい認識」とはどのようなものかの紹介は、拙文の直接の目的ではないので省略し、事変童話に関する部分について触れる。
 「事変童話とその取り扱ひ方」では、事変の新聞記事には、必ず一、二は童話の材料があるが、「事変を理解させる上に、日本精神を与へる上に、事変に於ける新しい出来事を、童話として児童に伝へることは大に必要なことである」ので、そのさいの注意点を述べる。
 「一時的流行に捉はれるな」として、事変ニュースにおわらないように、確固とした信念を持ってやるべきと述べ、話としての構成や興味性は大切だが、「伝説や仮作物語りでないからどこまでも正確に調査したもの」が必要だとする。新聞などの伏字の部分も調査して明瞭にいうべきだという。ノンフィクションとしての側面を重視しているのは、重大な事件との認識があったからであろうか。
 「部分的武勇談に捉はれるな」では、戦場での武勇談よりも、日常の心掛けや少年時代の様子、親の育児の様子などを知らしめて、「その人の立派な働きが決して偶然や僥倖ではなく、平常の覚悟によるものであると云ふこと」を伝えるべきだと主張。伝記の手法と重なるものといえよう。
 事変が終わっても、「一つの「童話」として立派に生命を保ち、永久に話すことの出来る可き話」でなければならないと説くのは、事変ニュースに終わらない童話であるべきとの主張と同じ。また、父親が戦争に行くと叱る人がいなくなるのでいい、というような六歳の幼児の例をひき、子どもはこのようなものだから、心に感じるように時々事変童話をする必要があると述べる一方、事変童話ばかりでもだめで、「事変童話を適度に与へると共に、情操を養ふ様な童話も、大に愉快な童話も与へなければならい」と説く。現実の子どもに接している幼稚園長の立場から、事変を口演童話に取り扱おうとする姿勢がうかがわれる。
 「事変童話の話し方」では、特に「戦争童話」を語る上での注意を述べる。まとめて列挙すると、一人の人物を中心にして筋を運ぶこと、戦争童話は説明的になりがちなので、具体的直接的な言葉を使い、乱暴に流れやすいので子ども同士の言葉をつかうこと、オノマトペを効果的に使うこと、動作を強く表すためにジェスチャーが必要であることなどである。

(藤本芳則)



文部省の新体詩募集について(3)

上田信道


(承前)
 鮎川は同書で次のように書いている。
 墓前を通り足を止めた人は何千何万といる筈だが、深く考えることもせずにたち去っていったというのはどうしたわけであろうか。彼らのなかに一人でもこの碑に注目するものがいたなら、《我は海の子》の作者は、もっと早く世に知られただろうに。
 「海の子」が文部省の新体詩募集に佳作入選したことについては、すでに宮原典子・編の『日本児童文学大系』第11巻(1978 三一書房)への記載によって明らかになっていた。しかし、これが社会的に広く認知されるようになったのは、1989(平1)年3月になってからのことである。
 このとき、たまたま日本テレビの番組「ズーム・イン・朝」で、旧制灘中学校(現・灘高校)の初代校長・真田のりえ範衛が「我は海の子」の作詞者だという説を放送した。すると、番組の内容を知った宮原晃一郎の娘・宮原典子がテレビ局に連絡したので、あらためて3月22日に宮原晃一郎作詞説が放送された。これをきっかけに新聞各紙に報道されて、《八〇年ぶりに作詞者がわかった》と、騒がれたのである。
 また、3月22日のテレビ番組を見ていた作家の鮎川哲也は、これに興味を覚えて取材を始めた。そして、4月10日付の「東京新聞」を入手すると、宮原典子にインタビューを申し入れた。この取材の様子が前記の『唱歌のふるさと うみ』に掲載されている。
すでに用意されていた二通の封書を見せていただく。新聞記事で承知していたが、差出人はいずれも文部省と毛筆で書かれており、宛て名は札幌、宮原知久殿としてある。一つは明治41年12月1日付のもので佳作入選を通知したもの、もう一通は42年1月26日付で著作権譲渡について。宮原氏の原題は単に《海の子》となっていたことがわかる。
 鮎川は同書でこのように記している。ただし、引用文中にある「封書」の内容については、残念ながら何も書かれていない。現在、この書簡は小樽文学館に保管されているはずである。
 さいわいなことに、鹿児島に「我は海の子」の歌碑が建立されたおりのパンフレット『我は海の子歌碑建立記念誌』がある。これは「我は海の子」実行委員会が、2001(平13)年4月22日付発行したもの。ここに書簡の写真版と翻刻が掲載されている。公文書であり、すでに書簡の著作権は消滅しているので、全文を紹介しておく。

発図二三四号
過般本省ニ於テ新体詩懸賞募集
之処 今般審査之結果 貴下応募ニ
係ル
第三部海の子佳作ト認メラレ賞金拾五円
授与相成候条 御承知有之度 金円交付
方ニ付テハ 追テ本省会計課ヨリ通知可有
之候 此段及通牒候也
 明治四十一年十二月十九日
   文部大臣官房図書課長
    文部書記官 渡部菫之介(印)
 宮原知久殿
追テ不日 著作権譲渡登録願送付可
致候条 御捺印相成度 此段申添候也
 これは旧文部省からの入選通知である。読み下しやすいように適宜空白を入れた。
拝啓曩に本省募集に
係る新体詩中、貴下応募
の海の子入選の儀、通知に及び
候処、右著作権譲り受けの登録
致したく候間、別紙登録請求書
回付に及び候条、住所族籍氏名
御記入御調印の上、至急御返送
相願ひたく此段申し進ぜ候。敬具
 明治四十二年一月廿六日
   文部大臣官房図書課長
    文部書記官 渡ママ辺菫之介(印)
 こちらは著作権譲渡書の提出を請求する書簡であるが、写真版がないため、パンフレットの翻刻によった。原文はおそらくカナ漢字交じり文だと思われる。
 ところで、『日本児童文学大事典』(1993 大日本図書)中の宮原晃一郎の項目は、わたしが執筆したものである。この時点では「海の子」入選のことは承知していたものの、この詩が「我は海の子」またはその原型だという裏付けがなかったため、あえて論及していない。
 その後、さらに資料調査を進めて宮原晃一郎作詞説を「國文学」(學燈社)の2004(平16)年2月臨時増刊号に書いたところ、芳賀矢一のご一族の中の某氏名義で、かなり強硬な内容の抗議を受けた。
 なるほど、読本や唱歌の教科書に掲載された詩「我は海の子」で、宮原晃一郎の佳作入選作は「海の子」であるから、かならずしもこれを同一のものと即断できるものではない。しかし、同時に入選した他の詩の場合でもタイトルの違いが目につくし、募集条件にも入選作を修正することがある、という意味のことが明記されている。したがって、「海の子」が「我は海の子」と完全に同一ではないにしても、少なくとも「海の子」が「我は海の子」の原型であると認定することはできるだろう。
 なお、「我は海の子」については、わたしの新著『名作童謡ふしぎ物語』(創元社)にも触れておいたので、参照されたい。
(完)
【謝辞】
本稿中に紹介した資料の入手については、「我は海の子」歌碑建立委員会代表であり、元鹿児島大学教授でもあられる鎌田範政氏に、ひとかたならぬ世話になりました。ここに心から感謝の意を表します。