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森鴎外と児童文学

―東洋文庫を読む―

 わたしが東洋文庫の『日本お伽集―神話・伝説・童話』(1・2 森林太郎・松村武雄・鈴木三重吉・馬淵冷佑/撰)を初めて書店の店頭で手にしたのは、学部の学生時代のことである。何よりも、撰者の筆頭の名前に目がいった。いくら不勉強な学生とはいえ、森林太郎が鴎外であることぐらいは知っていたし、その鴎外が子どもむけの大部の出版物に関係していたことに、いたく好奇心を刺激されたからである。
 東洋文庫のありがたさは、学生が衝動買いできる程度の値段で名著を入手できることにある。帰宅してさっそく本書をひもとき、「山椒太夫」を読んで非常に驚いた。同じ東洋文庫の『説経節―山椒太夫・小栗判官他―』をテキストに国文学の講義を聴いたこともあったし、鴎外の同じタイトルの小説は中学時代から何度も読んでいた。しかし、鴎外が「山椒太夫」を子どもを対象に再話していたことは全く知らなかった。
 今日でも、子どもを対象に鴎外の「山椒太夫」を取り上げる場合には、小説版を底本にすることが普通であろう。事実、これまで刊行された子どもむけの文学全集に当たってみても、例外なく小説版が採用されている。しかし、こうした文学全集の類はいずれも鴎外の死後の編集であり、鴎外自身には小説版を子どもに読ませようという意思はなかったのである。
 鴎外はわが国最初の児童文学叢書「少年文学」の第一編『こがね丸』(巌谷小波著 一八九一 博文館)に序文を寄せているし、児童雑誌「少年園」や「少年世界」に翻訳ほかを寄稿。草創期の児童文学とは、因縁浅からぬものがあった。『日本お伽集』の元版は培風館から出た「標準日本お伽文庫」叢書(全六冊)で、一九二〇〜二一年の刊行である。鴎外の没年は一九二二年であるから、晩年の仕事にあたる。それでは、鴎外はいかなるいきさつから人生の晩年に至って、子どもむけの出版企画に手を染めたのだろうか。
 その手がかりを提供してくれるのは、松村武雄の随想集『疎鐘』(一九四三 培風館)である。この書によれば「大正九年秋のことであつたと思ふ。当時東京高等師範学校訓導を勤めてゐられたM氏が、児童読物としての我が国の神話・伝説・童話の代表的なものを整理して置きたいといふ念願を起して、その由を鴎外博士、鈴木三重吉氏及び自分に諮られた。M氏の熱心な奔走によつて、やがて相談がまとまり、材料の選択には自分が、文章作製にはM氏が、推敲には博士、鈴木氏及び自分が当るといふことになつた」という。M氏とは馬淵冷佑のことである。してみると、この叢書はまず冷佑によって発案・企画され、培風館に持ち込まれたものであろう。
 ところで、東洋文庫版の『日本お伽集』第1巻には、瀬田貞二による丁寧な「解説」が付いている。第1巻の刊行後になって馬淵家から鴎外の書簡が届けられたので、瀬田は第2巻の「あとがき」でこの内容を紹介し、「解説」を補強。瀬田が前記の『疎鐘』を入手したのは、さらに「あとがき」を脱稿してからのことであったようだ。というのは、この書のことが「あとがき」の「付記」という形で紹介されているからである。もし、瀬田が当初から『疎鐘』を入手していたならば、「解説」や「あとがき」は全く異なる形態に仕上げられたことであろう。
 ここで瀬田が「付記」に取り上げなかったエピソードを紹介しておくと、「博士自身の筆になるところでも、あとで気に入らぬ個所を見出されると、再校の折は固より、三校になつても、どしどし改められる。『俵藤太』の或る一節の如きは、かうした推敲のために、殆んど全く原形をとどめなくなつてしまつた。これは印刷所にとつては、洵に厄介千万なことであるに違ひない。それがため印刷所から度々きびしい苦情が出て、間に立つた自分などは、ひどく気を揉んだものである。然し博士の逞しい文章精進を想ふと、気の毒といふ心を無理にも抑へつけて、印刷所をなだめすかしては、博士の一念が貫徹するやうに努力しないわけにいかなかつた」という。引用文中の博士とは鴎外のことなので、松村の記述を額面通りに受け取ると、少なくとも「俵藤太」のある一節は鴎外自身の筆になるということになる。さらに想像を逞しくすると、「標準日本お伽文庫」全六冊のうち「山椒太夫」を含む『日本伝説』の巻全体、もしくはこの巻のかなりの部分が鴎外自身の筆によっていたのではないかという気もする。それにしても、文豪であり社会的地位も名声もある鴎外の校正にきびしい苦情を言うとは、何と気骨ある職人気質の印刷業者であることか。面白いエピソードではある。
 ところが、鈴木三重吉は「標準日本お伽文庫」の文章が気に入らなかったらしい。「博士は、表現の簡古性を第一の要義とされた。いい意味の簡樸と古拙とを、大いに尊重された。この点に関しては、鈴木三重吉氏は必ずしも博士と見解を同じうしてゐなかつた。氏には、『日本お伽文庫』の文章が気に入らなかつた。よく『まづい、まづい』と苦い顔をしてゐた。(中略)第三者として冷静に観ずるなら、鈴木氏の童話に於ける文体は、少し粘りが強過ぎる。どこかねちねちしたところがあり、それに息が長過ぎる。一口にいへば、簡樸古拙といふ風趣とは頗る縁の遠い行き方である」という。三重吉は芥川龍之介が「赤い鳥」の創刊号に寄稿した「蜘蛛の糸」を書き直してしまうほど、子どもむけの文章に自負を持っていた。おそらくは神話学者として著名な松村の言う通り、昔話や伝説の文体としては鴎外流の《簡樸古拙》に軍配が上がるだろうが、鴎外と三重吉の文体観の違いが窺えて興味深い。
 思うに、昔話を子どもむけに再話した出版物の歴史を遡ると、三つの見るべき重要な仕事がある。年代の新しい順から列挙すると、「標準日本お伽文庫」叢書、石井研堂の『日本全国国民童話』(一九一一 同文館)、そして巌谷小波の「日本昔噺」叢書(全二四冊 一八九四〜九六 博文館)である。「日本昔噺」は小波としては初期の頃の仕事に属するが、再話の構成・文体ともに力のこもったものである。おそらく「標準日本お伽文庫」も『日本全国国民童話』も、小波の仕事を先行する出版物として強く意識したものと思われる。「標準日本お伽文庫」は東洋文庫にあるし、『日本全国国民童話』は宝文館出版から今も刊行されている。しかし、「日本昔噺」は以前に臨川書店から復刻版が出たが今は絶版で、復刻版すら簡単に目にすることができない。奇しくも、鴎外と小波は『こがね丸』で接点を持っていることでもあり、もし機会があれば「日本昔噺」を東洋文庫中の一冊に加えて貰いたいものである。

【「月刊百科」 平凡社 2001.6. 掲載】


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