山猫軒の料理メニュー 《エッセイ》



文学館・記念館ブーム 児童文学の舞台裏@

 私の勤務する大阪国際児童文学館は一九八四年の開館である。この当時、児童文学関係の資料を保存収集することに熱心な機関はごくまれであった。しかし、このところ、各地の自治体があいつで文学館や記念館を新設している。ほとんどの施設は児童文学関連の作家や画家の業績も視野に入っている。
 仕事がら私のもとにも、こうした施設の新設や運営について、相談が舞い込んでくる。中には、見かけが派手な上、図書館や美術館より維持費が安くつくからという発想のものも少なくない。はじめから継続的に資料を収集するつもりはないのである。展示内容を民間の企画会社に任せきりというのはまだ良いほうで、そちらの所蔵資料から適当な展示物を見計らって貸してほしいと言ってくるものさえある。関東のある県では、児童文学の貴重資料が寄贈され、資料館をつくる計画があった。しかし、担当者はたまたま人事移動でその係になっただけで、まったくの素人である。結局、書庫の消毒からラベルの貼りかたにいたるまで教えてやるはめになった。あげく、財政難のため計画が中止になったと一片の通知を寄こしてきた例もある。
 しかし、設置者がこの程度の認識なら、むしろ中止になった方がましだったのかもしれない。なぜなら、こうした施設は新設することよりも、新資料の収集や展示内容の更新など継続的な活動の方に、より多くの経費と専門的知識を必要とするからだ。
 昨今の財政難から、いずれの施設の運営も苦しく、現状維持すら難しいと聞く。せっかく建設した施設を、生かすも殺すも設置者の姿勢しだいである。それにしても、安易な思いつきに児童文学が利用され、イメージを落としていくのは不幸なことだ。

【「読売新聞」1998.6.22 夕刊】


収集と保存 児童文学の舞台裏A

 もともと、子どもむけの出版物は、読者の成長とともに読み捨てられてしまう運命にある。例えば、「少年サンデー」の創刊号(一九五九年刊)は、若き長嶋茂雄を表紙に登用し人気を集めた。しかし、今日ではめったに実物を見ることができない。
 戦前は総ての出版物が旧内務省の検閲を受けた。検閲が終わると旧帝国図書館(現・国立国会図書館)に交付されたが、同図書館では子どもむけの出版物は価値が低いとして多くを捨てた。書庫不足のため外部に保管され、火災にあった資料もある。
 戦前の軍事冒険ものは侵略主義的だとされ、戦後の一時期、徹底的に排斥された。確かにそういうものも多いが、総てがそうだと決めつけてしまうのは学問的ではない。そこで、私はこの分野の研究に手をつけたが、資料が少ない。その代表が「少年少女譚海」である。この雑誌は、一時期ライバル誌の「少年倶楽部」が脅威を感じるほど発行部数をのばしたが、おとなから低級な雑誌と見られていたことも響いたものか、今日では通読することが不可能である。
 このように、教育上の配慮が子どもむけの出版物の消滅を助長することもあった。明治の初期には、「空想にふけるクセがつくから、子どもに物語の本を読ませてはいけない」と大まじめで議論されていたほどであった。かくして、公的機関で系統的に保存されることがなかったため、かなり部数の多いものでも姿を消してしまうことになったのである。
 近年になって、やっと国が子どもむけ出版物の重要性を認識し、国会図書館上野支部をこの分野専門の図書館に改組(平成一一年度に部分開館)することにした。資料の収集と保存が一部の好事家に任された時代は、ようやく終わりつつある。

【「読売新聞」1998.6.29 夕刊】


研究者泣かせ 児童文学の舞台裏B

昔は雑誌の同じ号に同じ著者の作品が重複して載ることを嫌って、便宜上別名を名のることが多かった。
 戦前、山本周五郎は「少年少女譚海」誌などで山手樹一郎の筆名を使った。この名は編集者の井口長次が考案したもので、のちに山本から井口へ返還された。井口は作家になり、この筆名で「桃太郎侍」などを書いて有名になった。こういう事情を知らないと混乱を引き起こす。
 また、戦前の児童雑誌「赤い鳥」の執筆陣には有名な文壇作家が名を連ねている。しかし、実際にはこの雑誌を主宰していた鈴木三重吉が代作したものも多い。彼自身が代作したならまだしも、自分の弟子にも代筆させている。そういう知識があると、疑心暗鬼になってしまう。
 無名時代の宇野浩二は、先に文壇にデビューした江口渙の名前を借りて童話を書かせてもらった。のち、左翼作家が弾圧されて江口の仕事がなくなると、今度は名前を貸してやった。研究者泣かせの友情である。
 ニセモノまがいの筆名もある。巌谷小波(号=小波山人)は明治から戦前にかけて活躍したお伽噺作家である。これを意識して、寺谷大波(号=大波山人)を名乗る作家がいた。本名や経歴など一切不明だが、こんなふざけた筆名でなければそれなりの評価を受けた人だと思う。あるいは、韓国児童文学の祖の方定煥(バンジョンファン)は、小波(ソパ)と号した。偶然の一致だという説もあって、日本の小波のニセモノとは言えないまでも、紛らわしいことには違いない。
 こうしたことは、私も編集に参加した『日本児童文学大事典』でかなり調べあげたものの、完全ではない。だから、いまでも古い資料の整理には高度な学識と経験が必要だが、そうした人材は極端に不足している。

【「読売新聞」1998.7.6 夕刊】


課題図書 児童文学の舞台裏C

 児童文学にかかわる人は悪いことをしないという思い込みが、世間にはある。しかし、何年か前、子どもの本を何冊も書いている人がニセ札をつくって逮捕され、話題になった。セクハラのうわさも聞く。これらは極端な例だが、児童文学の世界でも利害が絡んでいるため、問題があっても容易にやめられないことが多い。
 夏になると、銀色のシールを貼った「課題図書」を書店の店頭で見かける。「青少年読書感想文全国コンクール」の対象に選ばれた図書である。このコンクールは、全国学校図書館協議会が主催し、某全国紙が共催する催しで、今年で第44回めにもなる長い歴史を持つ。
 問題は、全国の多くの学校で読書感想文を夏休みの宿題にして集め、コンクールへ出している点にある。宿題として本を強制的に読ませても、読書嫌いの子どもを増やすだけである。本気で子どもを本好きにしたいのなら、図書館を充実するとか、児童書の消費税率をゼロにする運動でもした方が、よほど効果的だろう。
 それでも、この制度のはじまった頃は、児童書の新刊が極端に少ないので、育成と普及というそれなりの役割もあった。だが、今やそういう時代ではない。だから、こんな制度はやめろと言われはじめて久しい。
 実は、主催者・出版社・流通業者・著者の利権がからんでいるから、やめられないのである。主催者は銀色のシールを有料で出版社に引き取らせ、本に貼らせる。全国の学校で宿題に出されるので、シールのある本は一時的にせよ必ずベストセラーになる。子どもが本を読まなくなり、子どもの数も減少して、売り上げが落ち込んでいる中で、出版関係者には非常においしい話である。こんな仕組みができあがっているのだ。

【「読売新聞」1998.7.13 夕刊】



人材不足 児童文学の舞台裏D

 グリム兄弟は言語学や昔話の研究者として大きな業績があった。しかし、子どもむけメルヘンの作者としての方がずっと有名だ。研究者の間では「1画家、2作家、3編集、4・5がなくて6研究」と、昔から言い習わされてきた。児童書の出版に関係する職業の人気は高いのに、研究者の人気は低いという嘆きである。
 もともと、児童文学や児童文化の研究は、伝統的なアカデミズムの体系に含まれていない。児童文学・児童文化関係の学科を置いている大学は私立の女子大に二校しかない。子どもの数の減少から、教育系の学部や学科はどこもリストラ中で、専任の教員を増やすどころではない。たぶん、就職先のないことが人気の低い理由の一つなのだろう。
 一方で、児童図書にかかわる公的サービスは、これまで冷遇されてきた。たかが子どもの本に専門家は不要だと思うから、需要がない。需要がないから供給もなかったのである。例えば、図書館司書の資格に児童サービス論の単位は不要だった。また、学校図書館法には司書教諭という制度の定めがあったが、肝心の配置を義務づけていなかったため、ほとんど空文に等しい規定であった。
ところが、読書嫌いの子どもが増えて社会問題になり、あいついで関係の法令が改正され始めた。図書館司書の資格には児童サービス論の履修が必須になり、学校図書館にも司書教諭の配置が義務づけられた。こうして、にわかに需要が高まってきたのだが、今度はそういう人たちを養成する側の人材不足が心配だ。
 私が事務局長を務めている日本児童文学学会の会員数は、大学院生も含めてやっと四〇〇人を超えたところである。優秀な若い人たちが競ってこの道を志す状況には、ほど遠い。

【「読売新聞」1998.7.27 夕刊】