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三一書房版「少年小説大系」は〈資料集〉か?

―過去の大衆的児童文学作品を現代に問う意味―

 少し前のことだが、長谷川潮氏が「『少年小説大系』に慟哭する」と題する評論を「日本児童文学」(1998年1・2月号)に発表。この評論に触発されて「少年文学の原典書き換え・削除500か所」という新聞記事(1998年2月5日付「読売」夕刊)が掲載された。歴史的な児童文学作品を現代の出版物として再刊する際、課題となることについて、いくつかの示唆を与えてくれる。おりしも、今月は敗戦の月にあたる。児童文学の戦争責任の問題と併せて、考え直してみる価値はあると思う。
 記事の内容は、三一書房から出た大部の「少年小説大系」に、「支那」→「中国」または「シナ」、「事変」→「戦争」、「苦力」→「中国人労働者」など、「差別的と考えられる表現に配慮」して書き換え・削除された部分が多い。これを児童文学研究家の長谷川氏が指摘したというものである。三一書房は「差別表現に配慮」したが「配慮のあまり行き過ぎた点があった」とコメント。長谷川氏は「戦時下の子どもがどんなものを読んでいたか」がわからないのでは「資料価値がない」とコメントしている。
 まず、長谷川氏が「大系」を資料集としてはダメだと批判していることについて。これはマトハズレだと言わざるを得ない。「大系」はもともと資料集として出版されたものとは考えにくく、現代の成人の読者に大衆的児童文学の面白さを伝えようとした企画だと考えられるからである。出版社サイドの主観的な意図はどうあれ、客観的にはそうとしか受け取れないのだ。
 ただ、なるべく幅広い読者を対象にして販売部数を確保したいという営業上の要請に応えた結果であろうか。もともと、成人の読者をターゲットにした企画であるにもかかわらず、長谷川氏の言うように、子どもの読者にも配慮した出版社側の姿勢が垣間みえるのも事実。結果として、「大系」の企画意図が中途半端になってしまったことは否定できない。
 次に、「大系」に多数の校訂ミス、校正ミスのあることについて。長谷川氏は編集者が「未熟」(「日本児童文学」)だと言うが、より本質的には「いい加減」さのあらわれなのだ。三一書房の言う「社会通念上不適切な一部表現」の内容は、かなり揺れ動いている。同じような表現でも、巻が変わると扱い方が変わっている。なぜ、このように対処がバラバラなのか。
 『ちびくろサンボ』が黒人差別だと批判されると、大手出版社はいっせいに絶版にして問題を回避。この作品が本当に黒人差別につながるのかということはほとんど議論されなかった。このように、出版社はコトがおきるとすぐに絶版にして責任を回避しがちである。議論を尽くした上で正すべきは正し、貫くべきは貫くという姿勢があまり見られない。出版社を批判する側も、議論ぬきに一方的に絶版を要求する。これでは差別を隠すだけで、差別を無くすことにはならない。そして、信念のないところに一貫した対処はありえないのである。結局、その場限りの対処の連続によって、本文を慎重に取り扱う感覚がマヒし、多数の校訂ミスや校正ミスという形で矛盾が噴出したのではあるまいか。
 一方、長谷川氏の批判にも「いい加減」なところが見られるのも事実。原典と「大系」の書き換えを問題にしながら、驚くべきことに初出雑誌にあたっていないのである。例えば「少年倶楽部」は東京・駒場の日本近代文学館にほぼ揃っている。東京近郊に居住する氏が、閲覧・コピーするぐらいのことには何の造作もないはず。
 もう一つ、例をあげておく。「土人」→「原地人」という書き換えについてである。現地という言葉は辞書にあるが、原地人という言葉は辞書にないから「大系」の造語ではないかと、氏はいう。しかし、「原地」という言葉はれっきとした日本語であり、「大漢和辞典」に載っている。ささいなことで揚足をとるつもりはないが、調査に手をつくさない姿勢を批判したい。
 長谷川氏は、近年、児童文学の戦争責任の発掘という方面で業績をあげてきた。そうしたことを念頭におくと、大衆的児童文学は総てが差別的で侵略的なものだという思い込みが氏にあるのではないか。むろん、大部分の作品にそういう傾向の見えることは否定しないし、肝に銘じるべきだ。しかし、総てがまるごと差別的で侵略主義的であったわけではない。一口に大衆的児童文学といっても内容はきわめて多様である。反戦的・非戦的なストーリーや、大アジア主義の立場に立ち植民地支配からの解放をテーマとしたストーリーを探し出すことは、それほど困難ではない。あえて言う。真に戦争責任を発掘するなら、事実を冷静・公平に見る姿勢が必要だろう。
 さらに、氏は大衆的児童文学を「いまの読者に興味ある読物として提供する意味はない」とまで言い切っている。その根拠として、「日本国防の安危に関する大機密書類」をたったひとりの軍人がいかにも重要書類を持っていると見せびらかしながら運ぶ。そういうところがバカバカしいのだという趣旨のことを述べている。しかし、もっとバカバカしいストーリーはいくらでもある。例えば、その機密書類を子どもが運ぶとか、殺人光線の反対の活人光線というようなことだ。大衆的児童文学の面白さとは、バカバカしいことをバカバカしいと思いつつもストーリー展開を楽しむことにある。氏は律儀なまでのリアリティーを大衆的児童文学に求めているが、芸術的児童文学とはそもそも尺度が違うのである。
 なお、研究的立場から見れば、もとより「大系」の本文は使いものにならない。しかし、解説や年譜には貴重なものがかなりある。例えば、平田晋策の経歴の誤伝を正したが、それだけでも大きな成果だったと思う。もともと児童文学研究はカネにならないし、就職先にも恵まれない。大衆的児童文学の研究ではなおさらだ。この大系がきっかけになって、未開拓の分野に関心を持つ若い人が少しでも出てくるようになって欲しい。この種の企画にそれ以上を期待するのは過大にすぎる。

【「本とこども」1998.8掲載】