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石井研堂の児童読物

 石井研堂は、児童読物の開拓者として、大きな業績を遺している。
1889(明22)年、学齢館から雑誌「小国民」が創刊。正確な事情と時期は不明だが、おそらく研堂は創刊号から編集を任されることになったようだ。研堂の児童読物との関わりは、ほぼ大正初期に至るまで続く。
研堂は子どもむけだからといって、内容には決して手を抜かなかった。日清戦争下の「小国民」に手旗信号の記事を載せたところ、軍機漏洩の罪に問われた。公判中に戦争が終結して事なきを得たものの、さらに論説でいわゆる三国干渉に反発。遼東半島還付問題を論じて発行停止処分を受け、同誌は「少国民」と改題(1895年11月)せざるを得なくなった。こうした出来事は、研堂の生真面目ぶりのあらわれといえよう。
 当初、「小国民」のほとんどすべての記事は、研堂が小学校の訓導(教員)を勤めながら書いたものだという。1891(明24)年からは教職を辞して、同誌に専念。少年雑誌界を制覇するまでに育て上げた。「少国民」を辞してからは、「今世少年」「少女智識画報」「世界之少年」の編集に携わり、かつてのライバル社であった博文館から「実業少年」の主筆に招かれている。1912(明45)年に「実業少年」が廃刊になってからは編集者生活にピリオドを打ち、著述生活に入った。
 巌谷小波が創作読物の開拓者であるに比し、研堂は知識読物の開拓者といえようか。
 研堂の児童読物の特徴は、知識読物を重視することにあった。この当時、欧米の進んだ知識を子どもたちの間に普及することは時代の要請であり、そうした要請に応えたものであろう。また、小学校の教員を経験したことは、子どもむけに平易で興味をひく読物を執筆する上で貴重であったと思われる。
 『十日間世界一周』(1889)は、最初の子どもむけの単著である。著者と同名の研堂散史という人物が、気球に乗って十日間で世界を一周。そのおりの日記を種に、各地の風物を紹介するという趣向の地理読物であった。ほかに、「小国民」に「不思議国巡回記」「西国巡礼」と題する読物を連載。国内の各地を周遊旅行する形式の地理読物で、著者名は周遊子になっているが内容からみて研堂であろう。各地の独特の風俗・行事の紹介に力を入れている。民俗の記録など価値なしとされていた中で、研堂の試みは貴重である。
 民俗への関心は、やがて昔話の採集・記録にも及んでいく。『日本全国国民童話』(1911)は、一部が関敬吾の『日本昔話集成』にも採録されるなど、今日もなお定評がある。
 また、科学読物を重視したことにも特徴があった。
 1879(明12)年のこと、研堂の郡山小学校時代の恩師であった御代田豊は、教え子を福島の師範学校に引率し、理化学の実験を見せている。これは文部省が理化学の実験を教育に導入するに先だつ試みであった。実験を見た研堂はいたく感銘を受け、のちに理科読物を積極的に手がける端緒になったといわれている。
 「小国民」誌上でも理科読物を重視し、簡単な理科の実験を紹介した。ほかに、「眼目の公判」では裁判形式で目の働きを解説した。こうした試みは『理科十二ケ月』(全12冊 1901)や『少年工芸文庫』(全24冊 1902〜4)のシリーズへと結実していく。
 伝記ものの分野では、『中浜万次郎』(1900)を特筆すべきであろう。生前の被伝者に会見し、嗣子の東一郎から資料を借覧するなど、徹底した調査をもとに上梓。今日もなお価値を失っていない。
 関連して、漂流記の集成『日本漂流譚』(全2冊 1892〜3)、研堂としては珍しい創作読物『鯨幾太郎』(1894)などを著したことを忘れてはならない。後者は中浜万次郎の体験などを下敷きにした読物で、海事思想の普及という時代の要請にこたえたもの。日清戦争を控えて、海軍の軍拡を進めていた世相を反映している。
 ほかに、「小国民」連載の「動物会」「虫国議会」では、動物や昆虫の生態を議会形式で面白おかしく紹介。帝国議会の開設を背景にした趣向であった。
このように、「小国民」の編集をはじめ、長年の児童読物とのかかわりは、その後、研堂の著述の基礎となった。例えば「小国民」に長期連載された「話の種」「日本事はじめ」は、わが国におけるさまざまな事物の起こりなどを取り上げた。「今世少年」には「明治庶物起原」を掲載。これらは、研堂の代表的な著作『明治事物起原』へと結実していくことになるのである。
なお、現在、不二出版から「小国民」の復刻版が刊行中である。研堂の児童読物に関する業績を手軽に読むことができるようになったことは喜ばしい。

【「彷書月刊」1999.7掲載】


★関連する論文「小学生むけ雑誌のスタイルを開拓した「小国民」」及び「高橋太華の児童文学」にリンクします。