山猫軒の料理メニュー 《エッセイ》



「豆の木」に掲載された長崎源之助の作品


 作家の特質は、初期の作品群に最もよく顕れる。長崎源之助もその例外ではなく、この度の復刻でそれが明らかになったことは喜ばしい。
 長崎は、虚弱な体質から、旧制中学を卒業間近に中退せざるを得なかった。にもかかわらず、戦争末期の一九四四年に応召し、北支へ出征。きつい訓練についていけず、「家郷の期待に応えられない自分が情けなく、涙をこぼす」(「年譜」『長崎源之助全集』第二〇巻 八八 偕成社)状況であった。その後、虚弱な兵ばかりを集めた特別訓練隊に転属。爆弾を身につけて敵戦車に体当たりする訓練を受け、否応なく死を覚悟した。しかし、敗戦を知らされると、帰還できるかもしれないという希望が出てくる。そして、引き上げの為の行軍中、「斎藤伍長の暴言に、生きて帰ることを決意」(同前)したという。この体験は「山の宿にて」をはじめ、繰り返し描かれることになった。〈生〉への執着こそ、長崎の戦争児童文学を最も特徴づけるものである。
 四六年に外地から生還した長崎が見たものは、敗戦の混乱と人間らしい思いやりを失った人々の群れであった。「さかさまになつた男」は、復員途中の長崎の体験をもとにしたもの。特有の《照れ》のあらわれであろうか。ユーモラスで飄々とした表現でありながら、深刻な問題を描き出している。
 「風琴」は、親子二代にわたって廃兵となった旅のアメ屋を描く。戦争が残した傷跡について声高に叫ぶのではなく、静かに訴えかける手法がとられている。いかにも長崎らしい短編である。後藤楢根は『おかあさんの顔』(六四 三十書房)の「解説」中で、「この話の底を流れている、風琴の音のような詩情。この甘さと古さの中にひそんでいる、日本人独特の詩情は美しい」と評し、「強烈な光で、子どもの心の中を、焼ききたえるのではなく、暖かく、やさしい光で、子どもの心を、しずかに、そして、すこやかに育てたい」ところに長崎のねらいがあるのだとする。けだし、卓見であろう。
 こうして、長崎の直接の戦争体験は、まず「山の宿にて」「さかさまになつた男」「風琴」に反映された。やがて、戦後児童文学が産んだ傑作の一つに数えられる連作短編集『あほうの星』(六四 理論社)へと結実していくのである。
 「彦次」は直接の体験でなく、取材によって集めた材料をもとにした戦争児童文学である。受け持ちの瀧先生が婚約者の戦死を知らされた夜、彦次は空腹のあまり級友の芋キリボシを盗む。感情の高ぶっていた先生から「恥しらず、あんたなんか、日本人じやないわ」とののしられた彦次は、集団疎開先から脱走。この場面は、長編『ゲンのいた谷』(六八 実業之日本社)の中にほとんどそっくり取り込まれる。長崎はこの作品について、「私にとって非常になつかしい作品であり、私の児童文学の方向を決定づけたような作品といっていいでしょう」(『長崎源之助全集』第一三巻 八六 偕成社)と、後に回想している。知恵遅れの子どもが主人公であるが、「ヒヨコタンの山羊」でも足の不自由な子どもが登場。社会的弱者からの視点も、また、長崎の特徴の一つである。
 「ヒヨコタンの山羊」は、子ども時代の体験をもとに、子どもの生活をいきいきと描いた短編である。長崎は「子どものときの遊び場は、屠殺場裏の原っぱでした。汚い所ですが、遊び場としては最高にたのしい条件をそなえた一級の場所でした」(『長崎源之助全集』第二〇巻 前掲)と回想する。この短編は六七年になって、長編『ヒョコタンの山羊』に書き直され、理論社より刊行。日本児童文学者協会賞を受賞した。同じく、子ども時代の体験をもとに、横浜を舞台とした『向こう横町のおいなりさん』(七五 偕成社)『トンネル山の子どもたち』(七七 偕成社)への布石ともなっている。「豆の木」版を一読した限りでは、戦争の影は感じられない。しかし、理論社版では、屠殺場に働く朝鮮半島出身のキンサンが陸軍へ志願したものの、民族差別に耐えかねて脱走。原っぱには軍需工場の進出が決まり、子どもたちの遊び場が取り上げられる。こうして、決して戦争反対論者でなかった「普通のあたりまえの庶民や子どもたちを描くなかで、私なりに平和の大切さ、いのちの大切さを表現できたらいいな」(「別冊日本児童文学」九一・四)という想いから、戦争の問題を語るように書き改められる。
 ヒョコタンには、特定のモデルは存在せず、長い年月の間に「だんだんに、私の考えを表現するのに適した人物にできあがっていった」(同前)という。「豆の木」版では、乱暴者のコウちゃんが山羊のメー吉を舟に乗せようと、ヒョコタンに同意を求める。しかし、ヒョコタンはあいまいに答えてしまい、メー吉を守ってやることができない。身を挺して池に落ちたメー吉を助けたものの、圧力に決然と対処することはできなかった。後年、この場面は理論社版の一部にはめ込まれる。この際、「メー吉をいじめると、しょうちしないぞっ。」と、よわむしのヒョコタンが相手の子どもに頭からぶつかっていくように改められた。敗戦後まだ間もないころから、長い年月を経て、ヒョコタン像がより積極的な方向に変化していったことがわかる。ヒョコタンの行動の変化に、迫り来るファシズムへの対応の違いを連想させられるのである。
 長崎は兵士としての自分の体験や、名もない庶民の戦争体験を描き続けた。それでは、その戦争体験をなぜ子どもに向けて書くのか。「ぼくは戦中派なので、戦争を通してしか、人生とか人間について考え難い。(中略)それを物語りのかたちをかりて、子どもたちに語りかけたい。そして、それによって、自己の思想をも深めていきたい」(「日本児童文学」七〇・三)と、長崎は言う。子どもたちを一段高いところから見おろして、戦争体験を一方的に〈伝達〉するのではない。「子どもに語ることは、自分のために書くことなのである」(同前)とする。それは「戦争という状況を子どもとともに生きなおそうとする」(関日奈子「長崎源之助」「日本児童文学別冊」七五・九)姿勢だといえよう。ヒョコタン像の変化こそ、〈自己の思想〉の深まりの反映に他ならない。
なお、「赤い笠のランプ」では、死んだわが子の姿を絵に描く中で〈美〉の本質に気づいた画家を描く。貧乏画家の松川氏は、「ぼくは今まで迷信的にランプの美だけを追つて来た。その違いを、今こそはつきり知らされた」という。この言葉からは、文学の師にあたる平塚武二の「玉むしのずしの物語」に描かれた仏師の姿を連想させられる。後の長崎に見られる幻想的な手法を用いた創作、例えば『ふしぎな路地の町』(八一 銀河社)の系列につながっていくのかもしれない。「影」では、影武者に仕立てられた農民が、自分の意志とかかわりなく戦いに巻き込まれてしまう。戦国時代を背景にしながら、自らの戦争体験をシンボリックに描いた作品である。「トコトンヤレ」(「日本児童文学」五六・二)でも、西南戦争に従軍した写真師を主人公に、戦争体験をシンボリックに描いて、日本児童文学者協会新人賞を受賞。長崎の出世作となった。この短編の手法の原型を「影」に見ることもできよう。あるいは、散文詩ともいえる短編「囚人」で、手錠をはめられ遠くへ連れて行かれる囚人とは誰か。戦場にかりだされる者を象徴するのだろうか。
 このように、「豆の木」掲載の初期作品群には、問題が尽きない。

【『豆の木 復刻本 解説書』 1998.11.10 大阪書籍】