山猫軒の料理メニュー 《エッセイ》



「子ども読書年」に思う

 今年は「子ども読書年」である。
 これは今年が国連の「子どものための世界サミット」が開催されて10年めに当たることと、今年の5月5日に「国立国際子ども図書館」が東京の上野にオープン(ただし一部の機能のみ)することを記念した国会決議(昨年8月9日参議院、10日衆議院)に基づいている。
 決議の内容は「われわれは、二十世紀の反省と教訓の上に立って、新しい世紀を担う地球上のすべての子どもたちに、人権を尊重し、恒久平和の実現と繁栄に努め、伝統的な文化遺産を継承することを託さなければならない。」「読書は、子どもたちの言葉、感性、情緒、表現力、創造力を啓発するとともに、人としてよりよく生きる力を育み、人生をより味わい深い豊かなものとしていくために欠くことのできないものである。」(参議院)、「本とふれあうことによって、子どもたちは言葉をまなび、感性を磨き、表現力を高め、創造力を豊かなものにし、人生をより深く生き抜く力を身につけることができる。」「国を挙げて、子どもたちの読書活動を支援する施策を集中的かつ総合的に講ずるべきである。」(衆議院)というもの。これを受けて内閣総理大臣は「次代を担う子どもたちが健やかに成長していくために、子どもたちの体験活動の機会の充実を図ることが重要であり、中でも読書は、伝統的な文化遺産を継承するとともに、子どもにとって豊かな感性、情操、そして思いやりの心をはぐくむ上で大切な営みであります。」「政府といたしましては、ただいま採択されました御決議の趣旨を体し、関係各界の理解と協力を促すなど、この子ども読書年が、羽ばたく子どもたちの健全な育成に向けた国民的努力の一層の契機となるよう、取り組みを進めてまいる所存でございます。」(8月10日衆議院での所信表明)と言明した。
 もし、衆参両院の決議と総理大臣の所信表明がほんとうに実現されたら、たいへん結構なことである。
 児童書を対象にした国立の中央図書館がいままで無かったことが不思議なのだが、それでも国が《たかが子どもの本》を収集保存する気になったことことは評価できる。デジタルミュージアムや目録のネットワーク化、記念切手の発行も大いによろしい。しかし、国立の中央図書館を誰がどのように活用するのかということについては、議論らしい議論がなされていない。例によって、この国のお役所はハコモノ(施設)づくりには熱心だが、中身の充実にはきわめて冷淡なのである。くだんの国会決議にしても、子どもの《読書》を《情操教育》にのみ矮小化し、子どもの読書を推進するためにはハコモノを建て、そこに本を集めれば良いという程度の認識が見え隠れしている。子どもの読書行為はもっと広い視野でとらえるべきであろう。例えば知識読物や雑誌のように…。
 たしかにここ数年、子どもが本を読まなくなっていることを憂慮して、学校図書館の充実などが図られてきた。1999年度だけでも100億円の学校図書整備費(図書予算)が地方交付税に上乗せされている。これは18学級規模の小学校で29万円、15学級規模の中学校で54万8千円の額である。また、2003年度からは全国の学校にある学校図書館の半分以上に司書教諭が配置される。しかし、事態はこれでほんとうの意味での改善の方向に向いていると言えるだろうか。
 先日、大学で児童文学を講じる人たちとの非公式な会合の席上で、児童文学関係の講義が大学から姿を消しつつあることが話題になった。具体的には「自分は今年で定年になるが、大学改革のあおりで後任の補充がない」ということで、「それは自分も同じだ」「そういえば○○大学も…」という話になった。
 いま、大学改革の名のもとで《国際》《情報》《人間》という看板への掛け替えが流行し、「文学部」や「教育学部」はやがて絶滅するだろうと言われている。とりわけ、少子化の影響で教員の採用が激減し、国立大ではもっぱら教育学部がリストラの標的になっている。私学でも志願者数の減少から経営は苦しい。特に短期大学の定員割れが深刻で、金融機関の倒産ラッシュの次は大学の倒産ラッシュの時代だと心配されている。そういう状況の中では、まっ先に廃止の対象に選ばれるのが児童文学関係の講義なのだ。それでは児童文学の講義は人気がないのかというと、必ずしもそうではない。毎年、受講する学生数の制限に苦慮しなければならないとか、大学の公開講座に受講者が殺到する状態だという。
 要するに、児童文学は資格に結びつく学問ではないので冷遇されるのである。そのうえ、学問としてまだ市民権を得ていない。例えば、昨年の9月に全国学校図書館協議会では「学校図書館司書教諭講習講義要綱」(第2次案)を発表した。これは先述の学校図書館司書教諭の配置に備えたものだが、「学校経営と学校図書館」「情報メディアの活用」などこと細かに記述されているが、「読書資料の種類と活用」についてはわずか28字の記述があるにすぎない。学校図書館司書教諭の講習においてすらこの程度の扱いであるから、他は推して知るべしという状況であろう。
 「子ども読書年」にあたって、今年はさまざまな行事が実施される。しかし、せっかくの読書年が一過性の行事やハコモノの建設だけで終わってしまってはなるまい。この機会に国がやるべきことは、人材の育成ではないだろうか。図書館に本を集めたり、学校図書館を充実させたりしただけで、子どもが本を読むようになるというものではない。児童文学に造詣の深い教員や図書館員の養成はむろんのこと、広く人の子の親が子どもの本に深い知識と理解を持つことこそ、子どもの読書環境を改善する上で最も基礎となることなのである。しかし、いま、大学改革の名のもとで行われていることは、ただでさえ数少ない児童文学関係の講義を大学から放逐してしまうことに直結しているのである。
 国会決議や総理の所信表明をカラ証文に終わらせないためには、大学に限らず広義の教育機関で児童文学に理解の深い人材を養成することが不可欠であろう。

【「本とこども」2000.2掲載】