山猫軒の料理メニュー 《新刊案内》



岩波文庫版『新美南吉童話集』の刊行に思う

 児童文学の世界では、よく "賢治・南吉と並び称せられる" と言われるが、宮沢賢治関係の出版物の氾濫に比して、新美南吉はずいぶん影が薄い。こうした中、南吉の作品集("童話集" はやや不適切か?)が岩波文庫の一冊として刊行(千葉俊二編 96年7月 332頁 620円)された。岩波文庫のモットーは「万人の必読すべき真に古典的価値ある書」を刊行すること。死後、半世紀あまりを経過して、南吉作品が〈古典〉の一つという評価を受けて出版されたことは、とりあえずは喜ばしいことだ。
 作品集の構成を見ていく。表紙には〈14篇を収録〉とあるので、最後に位置する評論「童話における物語性の喪失」は番外扱いになっているらしい。14篇の内訳は、ほぼ南吉の代表作を網羅しているように思う。個人的な好みから言うと、少年小説では「川〈B〉」「耳」「疣」あたりから一篇、幼年童話では「飴だま」あたりが欲しいところだが、頁数の制約とあらば仕方あるまい。
 14篇の作品は総て子どもの読者を意識したものなので、同時期に岩波文庫の一冊として刊行された『小川未明童話集』とは事情が異なっている。未明いわく《むしろ、大人に読んでもらつた方が却つて、意の存するところが分る》からである。また、冒頭に「ごん狐」「手袋を買いに」「赤い蝋燭」の3点を掲げたのは、やはり教科書教材を意識したからだろう。岩波文庫は成人の読者が対象だが、もし、子どもの頃に教科書で習ったというノスタルジーだけで読まれるとしたら、〈古典〉とは言えまい。すでに「手袋を買いに」は教科書から姿を消した。「ごん狐」や「赤い蝋燭」とて、いつ同様の運命にみまわれるかもしれない。その時がきても、南吉の作品群は〈古典〉として広く一般に読み継がれていくだろうか。それとも、少数のファンや専門家の間では支持されても、一般には殆ど知られていないマイナーな作品群として、わずかに命脈をつなぐだけということになるのだろうか。
 ところで、「手袋を買いに」の母狐の行動には整合性がない。坊やの手がしもやけになってはかわいそうと思うような子ども思いの母狐が、たかだか手袋一つのことで子狐を命がけの危険にさらすのは理屈にあわないからだ。この秋の日本児童文学学会の発表と講演で、国語教育畑のエライ方々から、この童話が教科書からはずされたのは母狐の行動に不整合が指摘された為だという趣旨の発言があった。私もかつて母狐の行動の不整合について触れた論考(『本とこども』特別版3に所収)を書いたことがある。が、だからといってこの作品が駄作だとは思わない。作品中に見られる〈母〉の問題は、南吉文学全体の理解に根深くかかわる重要問題なのだが、ここで詳しく触れるゆとりのないことは残念。ともあれ、この作品が教科書から姿を消したことを惜しむ。
 もはや紙数がないので、以下は印象の列挙にとどめる。
 まず、表紙にある「ユーモアと正義感にあふれた」云々にひとこと。〈ユーモア〉のあることは認めるが〈正義感〉とはどういう作品を指しているのかわからない。
 次に、「解説」(千葉俊二)の中に、「ごんごろ鐘」について「戦時下にあっては南吉のように良質な児童文学を生みつづけた作家でも、こうした作品を書かねばならなかったひとつの時代の証言」云々とある。これでは南吉が戦争協力を強制されたかのように受けとめられかねないが、「耳」などや日記を持ち出すまでもなく、南吉は戦争協力を強制されていない。突出したというわけでもないが、協力はあくまでも自発的行為なのである。
 最後に、本書の末尾に初出一覧が掲げられているが、むしろ底本一覧を掲げるべきではないか。校定全集は単行本が底本である。校定全集が底本だと断るだけで初出一覧のみを掲げていると、初出形が底本だという誤解を生みかねない。南吉は単行本収録の際に初出形の書きかえを行っているのだ。ちなみに、私はインターネット上で南吉作品の本文データを公開しているが、初出形と単行本形の両方を掲載。どちらをとるかは議論のあるところだからだ。また、本文を確定する作業は意外に難しく、作品の読解に係わる問題にしばしばつきあたるからだ。

【「本とこども」1996.11掲載】


★関連する講演記録「新美南吉・少年小説の魅力」にリンクします。