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日本児童文学を逆照射

―仲村修編訳『韓国・朝鮮児童文学評論集』―

 本書は韓国・朝鮮児童文学に関する評論を集成・翻訳するわが国最初の試みである。編訳者の仲村修はこの分野における数少ない専門家の一人として、「季刊メアリ」「オリニつうしん」などを通じ、地道な活動を続けている。本書はこれらの成果を集大成するとともに、新たに多数の評論を集成・翻訳したもの。巻末の資料を含めると、676頁にも及ぶ大部の書である。
 ここ数年、児童文学を含む日本近代文学と旧植民地における文学との関連について論究する研究が目に付くようになっている。本書もこうした機運の一つと解され、韓国・朝鮮児童文学と日本児童文学の関係が、良きにつけ悪しきにつけ切っても切り離せない関係にあることを改めて実感させられる。
 例えば、植民地時代に書かれた評論には、小川未明・北原白秋・野口雨情といった名前が頻出。大正期の童心主義の児童文学の影響を強く受けていることがわかる。また、李在徹の研究によると、韓国児童文学研究の草分け的存在である方定煥の〈小波〉という号は巖谷小波の影響であるらしい。韓国の童謡の七・五調の形式も伝統的な形式ではなく、日本の影響から新たに生まれたものだという。
 訳者によれば、植民地時代の児童文学には「個々の作家の文学観のうえにも、また文学全体のうえにも、『日本』ないし『日本文学』の影響が色濃く影をとどめている」(訳者「まえがき」)とともに、解放後は「独自的な児童文学をさぐる道が日本的なものからの脱却を伴った」(同)という。もっとも、本書は「全編をとおして日本との関連に配慮して構成した」(同)ものである。だから、日本児童文学との関連が深いのは当然ではあるが、韓国・朝鮮児童文学の歩みを語ることは日本児童文学を逆照射するということもまた事実であろう。
 これまで、日本で刊行された韓国・朝鮮児童文学をテーマとするまとまった単行本は、『児童文学と朝鮮』(仲村修・韓丘庸・しかたしん著 神戸学生・青年センター刊 1989)が唯一のものであったと思う。とりわけ「第一章 児童文学と朝鮮」の章は、韓国・朝鮮児童文学を概観する上で重要な資料であった。事実、この評論集を読み解く上でも、多くの手がかりを与えてくれる。ただ、あくまでも簡略な概論であるため、韓国・朝鮮語を解しない私のような者にとって、少し詳しく調べようとすることは全く不可能なことであった。今回の出版によって、ようやく年来の願望がかなえられることとなったのである。
 また、巻末の資料「戦後日本における韓国・朝鮮児童文学文献目録」「戦後日本で翻訳された韓国・朝鮮児童文学作品年表」は、仲村の研究成果をもとに構成。特に、後者は韓国・朝鮮児童文学について学ぶ上で必見の資料である。評論集という本書の性格上、評論の対象となった作品を読むことが欠かせないからだ。今後、仲村が「季刊メアリ」ほかに発表したものを含む翻訳作品が単行本にまとめられることがあれば、さらにありがたい。
 ただ、本書中には、韓国・朝鮮語の原文の誤りらしい箇所が散見される。小川未明の『赤い船』に「新作お伽話集」の冠詞があるという記述は、「おとぎばなし集」または「お伽噺集」が正しい。あるいは〈瀬田貞三〉〈斉藤隆介〉のような表記は、原文段階の間違いか、翻訳・印刷段階の間違いかは不明だが、われわれ日本の読者には非常に気になるところだ。
 また、日本語の文献を韓国・朝鮮語に翻訳・引用した文章を再び日本語に重訳する箇所がある。これには首を傾げざるを得ない。具体的に言うと、本書の148頁で『世界の児童文学』(波多野完治・島田謹二監修 1967年 国土社)の前書き(実際にはあとがき)を引用している。しかし、「この場合『われわれ』というのは、ある児童心理学者とある比較文学者および大学で彼らの講義を聞いているどこか一国の外国文学の研究家を中心にしていると解釈されるよう望みたい。」という部分は、意味がよくわからない。該当する部分について日本語の原文を参照すると、「この場合『われわれ』というのは、一人の児童心理学者と、一人の比較文学者、および大学でかれらの講義をきいた、一団の外国文学の研究者を中心とすると解していただきたい。」と論旨は明確で、「われわれ」とは波多野ほかこの書の著者たちのことを意味している。こうした場合、やはり、元になった日本語の原文を使うべきではないのだろうか。
 ここに挙げたような例は、原文に忠実な翻訳ゆえの現象と言えないこともないが、せっかくの労作にもかかわらず、これでは画竜点睛を欠く。日本児童文学の逆照射はいいけれど、誤照射はいただけない。重訳するとしても、せめて訳者注をつけるべきであったと思う。
 なお、本書は〈韓国・朝鮮児童文学〉を謳いながら、〈北〉の評論が収録されていない。南北分断の結果、「童心天使主義の文学は南側で、階級主義の文学は北側でそれぞれの領土をもっていばりながら、互いに非難し合い蔑視し合い相手を遠ざけ」(255頁)るという韓国・朝鮮児童文学の状況を考えれば、大きな欠落であろう。資料の入手難は理解できるので、ないものねだりだということはわかっていても、今後に期待したいものだ。
 最後に、この内容と造本で本体価格8000円というのは、営業的には思い切った冒険であろう。児童書出版の業界で大手と言われる出版社が軒並み理論書の分野から手を引く中、こうした企画を世に送り出した出版社の英断に拍手を送りたい。

【「日本児童文学」1997.7-8掲載】